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私の被爆ノート

幼子の叫び いまなお耳に

1997年9月26日 掲載
延田シヅエ(78) 爆心地から約3.7キロの常盤町で被爆 =長崎市三ツ山町=

二十六歳だったわたしは今の市民病院の辺りにあった県食糧営団本部の会計課に勤めていた。自宅は船大工町にあったので歩いて銅座町や湊公園を横切って通っていた。

その日。空襲警報が解除され、近くの防空ごうに置いていた帳簿などをほかの女子職員と取りに行くときだった。防空ごうの入り口付近で黒い影を感じ後ろを振り向いた途端、斜め後ろの方が「ピカッ」と光った。それと同時に爆風に襲われ、防空ごうの中に吹き飛ばされた。ほかの職員も飛ばされたようだった。

体のあちこちにあざをつくったが、大きなけがはなかった。しばらくすると、ガラスの破片が全身に刺さり血だらけになった営団本部の職員らがぞろぞろと防空ごうの中に入ってきた。

ろうそくを灯(とも)した防空ごうでガラスの破片を一つずつ取ろうとしたが、破片を取り除くと傷口から血が噴き出した。そのため大きな破片はそのままにしておくしかなかった。

しばらくして恐る恐る外に出てみると、上空は大雨が降るときのように真っ黒だった。白い煙がもくもくと上がり、あちらこちらでオレンジ色の火が見えた。家が浦上の方の人は家族を心配して戻っていた。

午後になって自宅に向かったが、道路はガラスの破片だらけだった。道端にはぎょろりとした目だけを残して全身に包帯を巻いている人たち。わたしも含めみんな何をしていいかわからず右往左往している様子だった。

家は屋根がわらが半分なくなっていて家財道具もほとんど飛んでいたが、両親と妹も無事だった。それから夜にかけ田上の知り合いの家の防空ごうに行った。

数日後には家に戻り、事務所に通い始めた。ある日、小島の辺りで道端の家の座敷に被爆した学徒動員の子供が寝ていた。隣にいた母親は、左手でうちわをあおぎ、右手に持ったはしで子供の体にわいたうじ虫を横に広げた新聞紙に取っていた。わたしはそれからおかゆの米粒がうじ虫に見え、どうしてものどを通らなくなった。

家の前は大八車が頻繁に通るようになった。初めは公園の整備かなにかで焼けた木の枝を運んでいると思っていたがある日、それが遺体であることを知った。湊公園ではあちこちで家屋の廃材を組んで遺体を燃やしていた。まだ幼い男の子が「お母さん」と泣きながら火に飛びつかんばかりに叫ぶ声は、今でも耳に残っている。まだ湊公園には行くことができない。
<私の願い>
今も世界中でいろいろな紛争が起こっている。宗数や人種などの差別なくすべてが平和になってもらえればいい。米国は臨界前核実験を行ったが、これも核兵器の性能を調べるもので許せない。ほかの国も右へ倣えで何らかの名目をつけて核の研究をする可能性もある。核兵器は生き物すべてを滅ぼすもので、絶対にない方がいい。

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