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私の被爆ノート

左目失明にさえ気付かず

1997年9月18日 掲載
川津 純子(71) 爆心地から約1.2キロの三菱兵器茂里町工場で被爆 =長崎市三ツ山町、恵の丘長崎原爆ホーム入所=

当時十九歳。男性に交じり兵器関係の機密書類を扱う重要な仕事に従事していた。毎日、西彼長与村の自宅から汽車での通勤。駅まで歩いて四十分。空襲などで汽車が遅れることもしばしばで、数時間もの道のりを歩くこともあった。

あの日は職場に着き、午前十時ごろ空襲警報が鳴ったため、山王神社の下の防空ごうに入ったが、「今んとは間違いやったとげな」との声が広がり再び仕事場に戻った。新しく導入された機械をスケッチするため、道具を抱え部屋を出ようとしたところ、「バチッ」というものすごい音がし、真っ暗になった。「やられた」。とっさに思った。気が付くと、体にたくさんのガラスが刺さり、周囲がざわついていた。

救護班長をしていた私は職場の人たちを外へ避難誘導。鉄のドアに足を挾まれうめいていた憲兵を死に物狂いで助け、救護隊に引き渡した後、同僚三人と一緒に防空ごうに向かった。周囲は焼け焦げた遺体、大やけどでうめく人々…、そしてがれきの山。逃げ道は遮られ、遺体を踏まざるを得なかった。「ズルッ」としたあの感触は今でも忘れることができない。

防空ごうはいっぱい。避難する人々の流れに身を任せ、裏山へ向かった。竹やぶの中で一休みしていたところ、飛行機が低空飛行してきた。周囲の「水が飲みたい」などとうめくけが人たちを横目に、また同僚たちと一緒に山を越え川平方面に逃げた。途中、畑にたくさんのキュウリがなっていた。そのキュウリをもぎり、飢えとのどの渇きをしのぎながら、自宅に無事たどり着いた。すべてが無我夢中で、左目にガラスが刺さり失明していることさえも気付かなかった。翌日、目が覚めると、右目も見えなくなっていた。二カ月後に結婚を控えていたが、その相手も原爆の犠牲となり数日後、苦しみながら息を引き取った。その後、二年近くの入院生活。右目の視力は何とか回復したものの、左目はもとには戻らなかった。最近、右目もほとんど見えなくなっている。
<私の願い>
被爆者たちは原爆であらゆるものを奪われ、苦しみの中で必死に生きている。核保有国はこの苦しみを一度味わうといい。あらゆる核実験がある限りまだ平和は来ない、戦争も終わらない。大国の言いなりになっている日本政府も情けなく、腐敗した世界の政治家たちに一本針を打ち込むような勇気ある若者が出てくることを心から願う。

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