二十九歳の夏だった。稲佐にある悟真寺の近くに当時五歳だった長男と暮らしていた。自宅で子どもの掛け布団を縫っていたその瞬間、「ドカーン」という地響きが起こり、目の前が真っ白になった。
数分たっただろうか。爆風で吹き飛ばされた子どもが泣き叫んでいた。われに返り、家の中を歩き回ってみると、二階へのはしごが真っ二つに割れていた。「とにかく防空ごうに避難しなければ」と思い立ち、外に出てみた。砂煙で何がどうなったのか、その時は全く分からなかった。内臓が飛び出した赤ちゃんを抱えた若い母親が「医者を呼んでくれ」と泣き叫んでいた。
その日は子どもを抱いて防空ごうから一歩も外に出なかった。「敵機の来襲がある」。そう思うだけで足の震えが止まらず、声を押し殺して一夜をすごした。
翌十日。早朝、青年団の人たちが一人につきおにぎり二個を配った。私は子どもをおんぶして、大浦の実家を目指した。
目も当てられないような惨状が延々と続いていた。浦上川の稲佐橋辺りは黒焦げの死体が転がっていた。あちらこちらで残り火がくすぶり続け、熱かった。つぶれた家の柱の間に挟まり、苦しむ人々が多くいたが、みな自分のことに手いっぱいで何もしてやれなかった。安全な場所に逃げたり、家族や親類を捜すのが何よりも先決だった。
長崎駅はがれきの山となっていた。建物はすべて燃え尽きていた。人間だけではなく馬も牛も腹を膨らませて死んでいた。 ガラス片や角材が散乱する道なき道をはだしで歩き続けたが、無我夢中のためか、不思議とけがはしなかった。つぶれた家の便所の窓から顔を出していた人がいた。「水をください」と助けを求められたが、どうすることもできなかった。両親が待つ実家に着いた時には、安ど感のあまり全身の力が抜けてしまった。
その後、残留放射能を吸ったためか、甲状腺(せん)をやられ、吐血した。
<私の願い>
戦争は絶対に繰り返してはならない。原爆犠牲者同様、異国の戦地で無残な死に方をした人も数多くいる。「お国のため」と命じられれば「なぜ」「いやだ」という言葉は口にできない時代だった。