五島の黄島国民学校を一九四四(昭和十九)年三月卒業し国鉄長崎駅に就職。一年が過ぎた十五歳の夏だった。長崎市の地理はよく分からなかった。広島市に特殊爆弾が落ちたという風聞は流れていたが、気にもしていなかった。
連結手として浦上駅から入る貨物列車を受け入れる「列車受け」のため、構内詰め所から外に出ようとしていた。突然ピカッとせん光が走り、すぐさまドーンという大音響。詰め所は崩壊。七、八人いた職員らは下敷きになった。幸い天井がないなど簡単な造りだったため大事に至らず、倒壊した詰め所からはい出した。後方の機関区に爆弾が落ちたと思った。
首がひりひりし、左わき腹にやけど、鼻血も出た。ホームや線路を越えて駅の鉄道診療所で治療を受けた。重傷者もいたようだった。夢遊病者のように出島の方へ歩き、駅へ戻った。
別の部署の先輩らと合流。大橋付近までモーターカーが来るため大橋の鉄橋付近で待ち合わせる任務が長崎駅に下ったことを知り、とにかく志願した。長崎駅長ら十八人が夕方すぎに浦上方向へ出発した。銭座町付近では燃えて真っ赤な鉄の塊となった電車を見た。浦上駅付近に着いたころは真っ暗だった。馬車の馬が死んでいた。上空に敵機の気配。とっさに路上に身を伏せた。生温かかった。死体の上に身を伏せていた。
浜口町の方向へ歩いた。火災が発生し、赤い炎があちこちに見えた。非番の同僚らがいた浜口町の第六青年寮はなかった。下の川の鉄橋付近では道路を挾み両わきの農家とみられる家が燃えていた。通過できず鉄道の線路へ出て、通り抜けた。大橋の崩れた防空ごう付近では「助けて。水をくれ」という女性の声を聞いた。水も持たず、どうすることもできなかった。下の川で見た火災の光景は脳裏に焼き付いて今も忘れることができない。
モーターカーを待ったが、来ないため鉄橋をわたり、道ノ尾駅まで歩いた。
被爆直後の浦上へ最初に入ったと思っている。一瞬になくなった家もあっただろうが、その後の火災で燃え尽きた家や人が多かったと思う。阪神大震災で発生した火災の模様をテレビで見たとき、九日の夜のことが思い出された。消火もされず、ただ燃えていた。
<私の願い>
被爆から五十二年になる。大きなことは言えないが、戦争は二度とあってはならない。核兵器が廃絶されるよう願う。原爆が広島と長崎に落とされ十五日に終戦を迎えた。経過をたどれば原爆が終戦に至らしめたといっても過言ではないと思うが、二度と使用してはならない。