出口 輝夫
出口 輝夫(61)
爆心地から1.4キロの本原1丁目の自宅で被爆 =長崎市かき道4丁目=

私の被爆ノート

頭に傷ーひん死の状態

1997年8月28日 掲載
出口 輝夫
出口 輝夫(61) 爆心地から1.4キロの本原1丁目の自宅で被爆 =長崎市かき道4丁目=

当時九歳で国民学校三年生。あの日は、自宅に母と兄弟五人(兄二人、妹二人と私)、友人がいた。私は八畳間で、次兄(聡夫さん)と友人とともに飛行艇の絵をかいた本を見ていた。飛行機の爆音が響き、閃光(せんこう)が走った。家がつぶれ、何かが飛んできて私の頭に当たった。頭の傷のせいでその後一カ月間の出来事は記憶が途切れ途切れだ。

外に出ると、三菱兵器製作所も県立工業も家々もすべて倒壊している。兄たちとともにはだしで防空壕(ごう)まで歩いたが、負傷者でいっぱいだったため、その日は家の畑に布団を並べて寝た。

翌朝、父と叔父がモッコに私を乗せ、担いで兵器製作所内を歩いていた。次に気が付いたときは諫早の学校に収容され、母が付き添っていた。翌日、諫早の叔母の家にリヤカーで運ばれているのをおぼろげに感じた。当時はだれも口に出さなかったが、私は九月半ばごろまでいつ死んでもおかしくない状態だった。歯茎が真っ白で引っ張れば、ちぎれた。

私とわずか一メートルしか離れていない場所にいた友人は即死だったと聞いた。足のやけど程度で傷はほとんどなく見えた次兄ものどが腫(は)れ内臓をやられて九月十二日に死んだ。今考えてみれば、被爆の翌日には自宅焼け跡の後片付けをし、そこに小屋を造って暮らしたことが悪かったのだろう。当時は放射能についての知識もなかった。

母は、次は私が死ぬ番だと覚悟していたらしい。が、父の友人の医師による傷の手当てや叔母が婦長をしていた三菱病院での療養のおかげで、少しずつ回復し始めた。それでも一年間ほどは髪の毛がなく、近所の子供たちから「はげ」とはやし立てられ、よく泣いた。

髪の毛が生えてきても体がだるく、後遺症におびえ続けた。好きだった野球も途中でやめ、出世もあきらめた。結婚後は子供への後遺症を心配した。今では二人の子供も成人、結婚してほっとしている。それでも生きている限り恐怖にさらされている。次はがんと闘う番だと覚悟している。二年前、認定被爆者になった。今でも耳からガラスが出る。
<私の願い>
核兵器は子孫にまで影響する。核兵器がある限り人類は危険にさらされている。この八月から被爆体験の語り部活動を始めた。原爆や核兵器の怖さを知ってもらい、核実験反対の声を大きくしていきたい。

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