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私の被爆ノート

母も気付かない顔に

1997年8月21日 掲載
富上ミツノ(66) 爆心地から0.6キロの長崎医科大病院で被爆 =福江市松山町=

三月に五島から長崎に出て来て、長崎医大病院の小児科で看護婦の補助として働いていた。十四歳のときだった。病院の調乳室でミルクを作っていたらゴロゴロという雷のような音の後、ピカッとして、その瞬間に意識がなくなった。人のうめき声で気が付いたが、目がほとんど見えなくなっていた。半年ほどは見えない状態が続いた。

先生が見つけてくれたが、避難する途中、水槽に転落した。翌朝、助けが来て病院の防空壕(ごう)に運ばれた。爆風を受けて、左半身は傷だらけで、左手首付近は三センチほどしかつながっていなかった。左ほおにも穴が開いて歯茎が見えるほどだったが、痛みは感じなかった。

十一日目に新興善小学校に移され、そのころから傷が痛み出した。運ばれる途中の熱湯をかけられたような痛みは忘れられない。小学校に来て三日目に母親が五島から捜しに来てくれたが、私の顔を見ても私だとは気付かなかった。数日後、再び母が来て、私の名前を呼ぶのが聞こてやっと会うことができた。

九月五日、福江に帰った。当時の公立五島病院に入院したが、看護婦は怖がって近くに寄ってこなかった。先生も「女の子だから助かってもかわいそうだから、このまま死なせては」と言って手当てもしてくれなかった。母が「手足がとれても、もう一度家に連れて帰りたい」と言って必死に看病してくれた。だれ一人助かるとは思っていないほどひどいけがだったが、二年ほどで退院できた。

外を歩くと石を投げられた。「いっそ死んどけばよかったと思わん」と面と向かって言う人もいた。それでも、両親が一生懸命看病してくれたので、死にたいとは一度も思わなかった。今でも体には無数のガラスの破片が入っている。
<私の願い>
核の犠牲となった私たち日本人には、核兵器はもちろんすべての兵器を廃絶するよう全世界に訴える責任と義務がある。被爆者が平和の礎となって若い世代に正しい歴史を伝えることによって、二十一世紀が核のない平和な世の中になるのではないでしょうか。

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