八月八日、米軍が空から「早く降伏せよ」と書いたビラをまいた。憲兵が怖かったから読んですぐに捨てた。そんな時代だった。私は三十六歳で、妻と二人の子供、母の五人家族。私は三菱造船所の勤労部に勤務していた。
もともと銭座町に住んでいた。だが、家が大きかったため、近くの変電所が攻撃された場合、爆撃の目印になる、と強制疎開を言い渡された。新しい家は松山町だった。今の爆心地公園近く。引っ越したのは七月十五日ごろだったか。原爆投下直前に、爆心地へ来てしまったことになる。
あの日は、朝からいつものように家族と朝食を取った。家を出て蛍茶屋で強制疎開の補償金を受け取った後、仕事に向かった。飽の浦町の会社に着いて服を着替えている時だった。「ピカッ」という光の後、しばらくして「ドーン」というごう音がした。
慌てて三十メートルほど離れた防空ごうへ避難した。だれかが数日前に広島に落とされた新型爆弾の話をしていた。まさか、その新型爆弾が家族が住む真上に落ちたとは、その時は思ってもいなかった。
私は市内の被害の大きさがよく分かっていなかった。会社を出たのは日が落ちてから。もう暗くなっていた。歩いて稲佐橋付近まで来たところで、状況の深刻さに気付いた。焼けたかわらやガラスが散乱していた。宝町の方では煙がもうもうとしていた。帰る足を速めた。
目指すわが家の方向に明かりのようなものが見えた。「生きているかもしれない」とわずかな望みを託したが、爆心地にあった家が無事なわけはなかった。明かりのように見えたのは火災の残り火だった。家は全壊していた。家族はだれも見当たらない。暗くて辺りがよく見えない。
途方に暮れていると、再び敵機が来て、照明弾を落とした。「シュー」という音と、照らし出された光景は今でも鮮明に覚えている。わが家どころか、一面が焼け野原だった。黒焦げの子供の死体がいくつも見えた。
数日後、家のあった場所へ行った。骨箱と棺おけを持って遺骨を捜しに。そこには、妻の頭だけが屋根がわらに挟まれて残っていた。私の家族はみんな死んでしまった。私だけが生き残った。
<私の願い>
「原子野に涙忘れて骨拾う」。これは家族の骨を拾いに行った時のことを思って詠んだ俳句です。原爆のことは、経験していない人には伝えられないと思っています。若い人に二度とあんな経験をさせたくない。核の開発はやめてほしい。自殺行為です。