三浦 英子
三浦 英子(71)
爆心地から3キロの万才町の事務所で被爆 =島原市六ツ木町=

私の被爆ノート

辺りいっぱいにうめき声

1997年8月7日 掲載
三浦 英子
三浦 英子(71) 爆心地から3キロの万才町の事務所で被爆 =島原市六ツ木町=

長崎市万才町にあった勤め先で事務をしていて被爆した。それこそ、ピカッ、ドーン。爆風は受けたが飛ばされはしなかった。一瞬、机の下に身を隠した後、友達と一緒に一目散に家(新大工町)に走った。

隣の壁が倒れ込んでいたが、母は無事だった。隣組の組長さんの命令でみんなで本河内町の山に逃げた。母が持っていたのは父の位はいだけだった。

町の方から続々と被爆した幽霊のような姿の人が群れになって来た。うつろな目をした人々は皆はだしで、背中の皮がむけて、足のかかとまでぶら下がっていた。歩く度にぺタぺタ音がした。今も耳に付いて離れない。

墓地で眠らないまま一夜を明かした。「うー」といううめき声と「水をくれ、水をくれ」の苦もんの声が辺りにいっぱいだった。

翌日、稲佐にいる伯母を捜しに行った。道々、息絶え絶えの人、体にうじ虫がわいたままの人たちが「水をくれ、水をくれ」とうめいていた。浦上川には水を求めてうつぶせになったまま、たくさんの人が死んでいた。伯母は家の倒壊で足を骨折していたが、梁(はり)の空間に挟まって助かり、小学校に行って手当てをしてもらった。しかし四、五年後に亡くなった。

その年の秋に利夫(81)と結婚。夫は片淵町にあった連隊司令部に勤務していたことから、部下を捜して市内を歩き回り、放射能を体いっぱいに浴びた。進駐軍の命令で軍の残務整理をした後、夫の郷里の島原市に帰った。

そのころから私は貧血で、きつかったが、放射能が原因と思うと怖く、不安な毎日だった。当時、被爆したことは秘密にしていた。偏見と差別が怖かった。

夫は会社勤めを始めたが、心筋梗塞(こうそく)、呼吸器疾患で苦しんでいた。私の貧血も治らないまま、薬が手放せない。夫は入院が続いている。

今、私は「生かされている」と思っている。長崎高女(当時・西山町)の同級生が徴用されて軍需工場で働いていて被爆。たくさんの恩師と友達を亡くしてしまった。彼女たちの犠牲の上に私たちは生かされている。ごめんなさいと何度言っても言い切れない。

夫は県被爆者手帳友の会島原支部(現・県被爆者友の会島原南高連合会島原支部)の支部長を十年間務めたが、今年七月、入院生活が長引いたため、支部長を辞した。私も命を全うするまで被爆者運動に、しっかりかかわっていきたい。
<私の願い>
被爆体験を風化させてはいけないと切実に思う。絶対に忘れてはいけないこと。被爆者が高齢化して亡くなっている。二世、三世には、しっかり受け継いで、と願う。核のない平和な世の中をつくるために命ある限り尽くしたい。

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