十四歳のとき、親元を離れ、長崎市の三菱長崎工業青年学校に入学した。戦況の悪化で講義は満足に行われず、兵器工場で航空魚雷の部品を作る毎日だった。
十六歳の夏だった。九日は、いつものように寮から工場まで歩いた。空襲警報が午前中から鳴り始めたが、だれも作業の手を休めなかった。しばらくして解除されたが、警戒警報は出されたままだった。
突然、「ピカピカッ」と稲妻のようなせん光がほとばしった。瞬間的に目と耳を手で押さえ、地面に伏せた。背中が焼けるように熱かった。数分後、落ちてきたガラスの破片を体から揺すり落として起き上がると、天井が頭上に迫り、鉄骨の柱がぐにゃりと曲がっていた。一緒にいた同僚は、爆風で吹き飛ばされたのか、見当たらなかった。
天井の破れた穴から外にはい出た。空はどんよりと曇っていた。皮膚がただれた人、ガラスが突き剌さった人、地面にはいつくばり「助けて」とうめく人。地獄だった。「もう一発食らうと死ぬ」と思い、門に向かったが、人だかりですぐには出られなかった。
同僚と荷物を取りに寮に急いだが、炎上していた。その日は、寮の近くの防空壕(ごう)に同僚らと泊まった。皆ぼう然とし、まともに会話できなかった。
翌朝、実家に戻ろうと道ノ尾駅まで同僚と歩いた。「役場でおにぎりがもらえる」と聞き、役場へ向かった。途中、田んぼの近くのわき水を腹いっぱい飲んだ。役場でもらったおにぎりは三つ。前日から何も食べていなかったので、木陰に腰を下ろし、すぐに食べてしまった。
道ノ尾駅に戻り、早岐駅へ。列車のドアに、果実がぶら下がるようにして乗った。駅に着いて砂利道を約三時間かけて家まで歩いた。外にいた姉が私を見つけ、「正輔が帰ってきた」と叫び、家に駆け込んだ。新型爆弾が落ちたと聞き、死んだと思っていたようだ。
近所の人たちが夜、駆け付けて無事を喜んでくれた。背中はガラスの破片で傷だらけだった。左肩には約三センチのガラスが突き剌さっており、父にペンチで抜いてもらった。その後、大した後遺症もなかった。本当に運が良かった。
<私の願い>
人類を滅亡させる核兵器を造るべきではない。今も戦争を続けている国があるが、人間同士が殺し合うことほど、悲惨なことはない。若い世代には決して戦争をしてほしくない。