当時十五歳。三菱青年工業学校(浜口町)に在学しながら三菱造船所造船設計部(飽の浦町)で働いていた。しかし栄養失調のため体調を崩し、八月初旬から西山本町の自宅でずっと寝込んでいた。
あの日の朝食はとっておきのタイの干物。「病気がよくなるように」と祖母が知人からもらってきてくれたのだ。それを見た弟の国之=当時(13)=は「兄ちゃんはいいね。病気で魚が食べられて」とすねて、学校へ出掛けて行った。みんな腹をすかせていた。
午前中は病院で診察を受け、自宅に戻った。退屈なので縁側に出て空をぼんやりと眺めた。よく晴れていた。すると「ブウウウン…」と重い音が聞こえてきた。「日本軍の飛行機じゃないな」と思ったその時…。
「パーッ」
ものすごいせん光。私は数分間、気を失ったようだ。気付くと柱は傾き、辺り一面に窓ガラスの破片が散乱している。けがはない。「焼夷(しょうい)弾が庭に落ちた」と思い震えていると、母が「常之、大丈夫かっ」と叫びながら走ってきた。母はすぐ近くの西山神社で被爆したが、幸いけがはなかった。「ここは危ない」と母に支えられ、近くの防空ごうに向かった。
外に出ると、辺りの家はすべて傾き窓ガラスの破片が飛び散っていた。防空ごうに入って二十分後ぐらいに、真っ黒な空から夕立のように真っ黒い雨が降ってきた。私は怖くてただ奥で息を潜めていた。それが良かったのか、このとき雨を浴びた人は後に次々と白血病で亡くなった。
昼すぎには妹が、夕方には父が無事に帰ってきた。だが弟の国之が帰ってこない。国之は長崎商業高(油木町)の校庭で畑作業をしていたらしい。両親は毎日捜しに出掛けたが一片の骨すら見つからないという。両親が帰ってくるたび「国之は見つかったか」と尋ねた。父は怒りと悲しみで気が立っていたのだろう。「お前はこんなときに寝込んで兄弟愛がないのか」と私を怒鳴った。
十一月ぐらいにようやく歩けるようになり、爆心地付近に行き国之を捜した。街はなく、道もなく、電車のレールの上を歩いた。私が通っていた三菱青年工業学校に行ってみると、跡形もなかった。先生も、大勢の友達も一瞬にして亡くなったという。私は学校を休んでいて助かった。何か生きていることが不思議な気がした。
<私の願い>
原爆で亡くなった人には申し訳ないが、戦争を終わらせるきっかけだった。しかしあのような非道な爆弾はいけない。すべての核実験を中止し、世界中の人が安心して暮らせる社会になってほしい。