長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています

私の被爆ノート

悲しさ、腹立たしさが交錯

1997年7月18日 掲載
瀬川 卓哉(69) 爆心地から1.8キロの長崎市稲佐町3丁目の防空ごうで被爆 =長崎市片淵2丁目=

当時は十七歳。学徒動員からの引き続きで稲佐橋近くの鉄工所に勤めていた。九日の朝、所長から新しく入ったリヤカーを淵神社下の防空ごうに保管してくるよう頼まれた。空襲警報は解除されていたと思う。午前十時半ごろ、リヤカーを引いて鉄工所を出た。

約十五分で、その小さな防空ごうに着いた。「昼までに戻ればいい」とも言われていたので、リヤカーを入れ、休んでいた。突然ピ力ッと光り、ドーンとものすごい音がし、真っ暗になった。「広島が新型爆弾で全滅した」と、うわさが流れていたので、すぐにそれだと思った。

「怖かった」。約三時間たって恐る恐る防空ごうから出てみると、神社横にあった病院が倒壊していた。しばらく、ぼう然と立ちすくんだ。気を取り直して戻ると、鉄工所は全壊。所長や二十数人いた従業員を捜したが見つからなかった。私は左腕を少しやけどしただけで運が良かった。

小学校卒業まで台湾で過ごした。中学進学のため両親と弟の家族四人で帰国、稲佐町に住んでいた。

あの日は、三菱造船所に勤務する父は腹痛のため会社を休んでいた。心配になり、家に向かった。道が分からず山越えする。途中、浦上の方向が燃えていた。死体や馬が倒れているのを見た。倒れている人を起こしてみたが既に死亡していた。

自宅は半壊。父は頭を強打したらしく「頭が痛い」と安静にしていた。買い物で外出していた母は大やけどを負い、十四歳の弟が稲佐国民学校に手当てに連れて行っていた。悲しいのと腹立たしい気持ちが交錯した。翌日、母は新興善国民学校の救護所に移された。暑さのためか、やけどにウジがわいた。ウジを取るのが弟の日課となった。同小では死んだ人を焼く光景を見た。

二十五日ごろだったか、列車が動きだしたので、「ふるさとで死にたい」という父をおぶって島原の実家に連れていった。九月一日、伯父さんらにみとられ亡くなった。

その後、母は大村の海軍病院に一年近く入院。弟が付き添い、私は商売で生活を支えた。母の退院後、道の尾の叔母さんの家に身を寄せた。やけどのあとを見られるのを嫌っていた母は一九七四年、原爆症などが原因で他界した。
<私の願い>
原爆で両親や同級生らを亡くした。被爆のことは思い出したくもないが、伝えていくことも重要。爆心地公園や救護所だった新興善国民学校など大切にしてほしい。被爆者の願いは核兵器をなくすこと。絶対に使用しないよう訴えたい。素晴らしい憲法を守り、平和な世界を願っている。

ページ上部へ