一九四五(昭和二十)年八月九日、私は二十五歳。二十九歳だった夫は三菱長崎製鋼所(現在の茂里町)の研究技師で、当時は疎開工場の鎮西学院(現在の活水高校)に通っていた。
私は近所に回覧板を届けに行った帰りだった。日傘をさし、娘を抱っこしていた。突然、B29が超低空飛行で頭上をかすめていった。素早く道沿いの防風林に逃げ隠れた瞬間、ドーンという地響きが起こり、太陽が落ちたかのような光が目に飛び込んできた。わらぶき屋根の家は次々と燃え上がった。自分の家が燃え落ちるのをただぼう然と見ている人もいた。
自宅は炎焼を免れたが、半壊。裏口からもぐり込んだものの、障子もふすまも吹き飛ばされ、畳が「く」の字に折れ曲がっていた。午後三時か四時ごろ、父母が無事に帰ってきたが、夫は帰らぬまま。父親が助けに行ったが「市内は火の海、がれきの山で今日は無理」とのことで引き返してきた。大やけどをした負傷者がぞろぞろと数珠つなぎで川平に避難してきた。
十日早朝、父母らが主人を捜しに行った。鎮西学院は爆心地から南西約五百メートルに位置し全焼倒壊。主人は二階でうつぶせで死んでいたという。両手を両目に当てたままの焼死。腰に巻いたままのバックルが身元の決め手となった。
十一日、天井坂で作った棺おけに乗せられ、変わり果てた姿の主人が帰ってきた。目鼻立ちは辛うじて分かったが、手足など体の細い部分は炭化してちぎれていた。悲しさを通り越した気持ちだった。夕方、だびに付した。竹の久保の自宅で下敷きになった主人の母親の遺骨も届けられた。
敵かどうかさえ区別がつかない飛行機が毎日上空を通過した。いつ殺されるのかと、生きた心地がしなかった。十六日は主人の父親、十九日には主人の一番下の妹がそれぞれ死んでいった。
ちょうどそのころから約一カ月間、私と生後十一カ月の娘、七つ年下の妹の三人が体調を崩した。原爆投下の当日、一緒に逃げ回った三人だった。下痢と高熱、歯ぐきがはれ上がり、あまりの痛みで一言もしゃべれなかった。「自分は死ぬだろう」と紙に書いて母親に見せたら「おまえが死ぬてあるか。子どもはどがんすっとか」と本気で怒られた。三人はどうにか持ち直したが、恐ろしくてつらいあの日の記憶はいまなお鮮明に残る。
<私の願い>
戦後生まれの世代に原爆のことを真剣に聞いてもらいたい。多くの市民は食べ物も着る物もなにもない時代を生き抜いてきた。被爆者がどんなにつらい思いをしてきたかを知ってもらいたい。