当時二十七歳だった。夫は出征。川平郷(現川平町)の自宅には両親、娘二人、疎開してきた姉夫婦、その息子の計八人が暮らしていた。その日は朝から母たちと一緒に、数キロ離れた三組川内郷の田んぼで稲の除草作業。すると突然、「ガアー」というものすごい音がし、同時に何が何だか分からなくなった。
気が付くと、葉っぱや土などありとあらゆるものが空中を舞っていた。爆弾が落ちたことが分かり、生きているのか死んでいるのか、つい肌をつまんで確かめた。十メートルぐらい吹き飛ばされていただろうか。
腰や手足などに痛みはあったが、自宅にいる寝たきりの父、娘たちのことが気になり、無事だった母と寄り添い家族のもとへ向かった。周辺は火の海。はだしだった私は焼け跡を死に物狂いで歩き、ようやくたどり着いた。
わらぶきの家は燃えていた。娘たちはやけどはしていたものの無事。寝たきりの父も、姉夫婦に自宅から助け出され近くの畑に寝かされていた。残っているのは年寄りと女、そして子どもたち。どうしようもなく不安になり、近くの防空ごうに身を寄せた。
山の中腹にあったせいか、しばらくすると、ふもとから服や肌がボロボロになった人たちがこっちへ登ってくる。「寝かせてくれ」「食べ物、水をくれ」。焼け出された私たちには与えるものが何一つ残っていなかった。かといって、断ることもできず、ただ涙が出てくるばかり。彼らはまた引き返していった。「だれがこんな目にあわせたのか」─。侮しくて仕方がなかった。
夜になると防空ごうは湿っぽく、寝たきりの父は神経痛でうなり始めた。母が外へ連れ出し、ミカンの木の下で抱きかかえ泣いていた姿は今でも頭から離れない。
「米軍が上陸し、皆殺しにする」とのうわさが広まり、「おまえらだけ逃げろ」という父を残し、数日間、山の中に逃げたこともあった。燃えさかる浦上地区、食糧などの配給をもらいに住吉地区に行く途中に見た若い男性の死体─。すべてが地獄のようだった。
冬になって、頼りの夫が戻ってきた。自宅の再建が始まった矢先、栄養失調だった寝たきりの父は、仮住まいのバラック小屋で死亡した。
<私の願い>
私の友人たちも身内を亡くし、どれほどの苦労をしてきただろう。戦争は思い出、歴史、財産などそれまで築いてきたものすべてを奪い去ってしまう。この世でもっとも大切なのはやはり平和。そのためには、すべての人たちが争いをなくし、仲良くしていくことが大切ではないだろうか。