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私の被爆ノート

死体の中で友人捜す

1997年6月26日 掲載
矢口 勝巳(67) 3.7キロ地点で被爆、その後爆心地付近ヘ救援に出向いた =対馬厳原町曲=

当時は三菱工業青年学校に養成工として在学中。浦上方面にあった学校に通いながら、向島というところにあった造船部の第二艤装(ぎそう)工場で働いていた。もし原爆落下当日が学校へ行く日だったら、この命はなかったかもしれない。

当日は会社に行くなり空襲警報が鳴り一時、造船所内のトンネル壕(ごう)に避難。警報が解除になった後、工場の二階へ行き、暑いので裸になってから仕事を始めようとしていた。突然やみ夜の稲妻のような激しい光が走った。続いてものすごい爆風がした。工場の窓ガラスは以前の爆撃で割れて既になく、幸いけがはなかった。

そのときは会社のすぐ近くに普通の爆弾が落ちたのだと思っていた。しかし避難したトンネル壕を出て飽の浦の寮へ帰る途中、異常に気が付いた。港を挾んだ真向かいの県庁や浦上方面から煙がもうもうと上がっている。町全体に火が付いているのを見て、今までの爆弾とは違うと思った。

本当に悲惨な光景を目にしたのは二日目、三日目。浦上方面の兵器工場にいたはずの養成工の友人を捜しに出かけたときだ。言葉では言い尽くせない体験をした。残っている原爆写真程度ではとても現実のすべては表せない。

稲佐橋、幸橋、浦上駅…場所も分からず歩き回った。長崎港には川から流れてきた死体がいくつも浮いていた。川の淵(ふち)には水を求めやって来た人が折り重なり、虫の息でうめいていた。助けたいと思っても、どうするすべもない。即死の方がまだましだと思ったくらいだ。

兵器工場は鉄骨だけ残り、あめのようにねじ曲がっていた。指先などの骨が見えるまで焼け焦げた死体、男か女か分からない死体もあった。邪魔になる物を踏み越えながら捜し回ったが、友人は見つからなかった。生きているなら帰ってきたはず。多分助からなかったのだろう。

私自身は外傷もなく、これまで平穏に暮らしてきた。しかし原爆で死んでいった人のことを思えば、二度と戦争はしてはならない。戦争の第一線にこそ行っていないが、一般の国民が何万人も犠牲になった最も悲惨な現場を目の当たりにしたのだから。 (対馬)
<私の願い>
原爆がどんなに悲惨なものかは語り尽くされていると思う。あとは若い世代が被爆者の話を聞いて、どれだけ本当のありさまを想像できるかだ。われわれ被爆者はいずれいなくなる。若い世代が原爆の悲惨さを語り継いでくれることを強く望みたい。

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