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私の被爆ノート

無残な光景に放心状態

1997年6月19日 掲載
石橋テル子(70) 爆心地から約4.8キロの西彼長与村(現長与町)の事務所で被爆 =ブラジル・リオデジャネイロ州ニテロイ市=

当時十八歳。自宅は長崎市戸町三丁目にあったが、毎日、船やバスを乗り継いで一時間半以上かかって西彼長与村吉無田郷の国鉄門司鉄道局長崎管理部施設課の仮設事務所に通い、事務職員として働いていた。あの日はいつものように午前八時に出勤。十一時には机に向かっていた。

そのとき閃光(せんこう)が走り、窓ガラスが割れた。私たちは近くに爆弾が落ちたと思い机の下に潜り込んだ。その後も何度か飛行機の爆音が響き、伏せようとした。係長が「もう机の下に入らないでいい。空から写真機を回しているだけだから」と言った。今考えると、あの係長は新型爆弾のことを知っていたのだと思う。

赤黒いきのこ雲が長崎市街上空に広がっていた。長与駅を通って病院に運ばれていく人々は、目を背けたくなるような無残な姿。自宅が気になったが、その日は長与村の友人宅で夜を明かすことにした。異様な光景に気が動転して、なかなか眠れなかった。

翌朝、長崎市内に向かった。途中まで列車で行き、一日で焼け野原となった浦上地区一帯を歩き続けた。一歩歩くごとに死体と救いを求める人にぶつかった。立ち木のように焼け焦げ、手を上げたり、足を広げたりしたままの人もいた。「水をください」と言われてもあげる水はない。あまりの無残な光景に放心状態だった。

逃げるようにして帰りついた自宅の二階の戸は爆風で全部飛んでしまっていた。兄から引き留められ、数日勤めを休んだが、仕事がたまっているため出勤。浦上一帯を歩くほか通勤方法はなかった。たくさんの死体が焼かれ、原爆特有のにおいと混じり合って独特のにおいがした。

同僚で学友でもあった三枝昭子さんが気掛かりだった。彼女はあの日仕事が休みで、母親とともに岩川町の自宅にいたそうだ。後で、職場の人から全焼した家屋の下から白骨死体二体が見つかったと聞いた。捜しに行かなかったことが今でも心残りだ。

妹は学徒動員で大橋町の兵器工場で働いていた。奇跡的に助かったが、同僚の中にはその後、髪の毛が抜け、亡くなった人も多かった。

農業移民としてブラジルに移り住んで三十五年。私自身いつも顔色が悪く体がだるかった。長年適切な医療を受けることができず苦しんできたが、今回(今月十八日から)、日赤長崎原爆病院で治療を受けることになった。
<私の願い>
ブラジルの議員たちに被爆体験を証言したことがある。核兵器を持つ国がたくさんある中で、孫たちの小さな生命をどう守っていくか気掛かり。ブラジルでは被爆者であっても各種手当を受けることはできない。その日の生活に困る人々にはいくばくかの医療費も大変貴重。生命あるうちに何とかしてほしいと思う。

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