十九歳だった。この年の四月に長崎医科大学付属薬学専門部(現長崎大薬学部)に入学、浜口町で下宿生活を始めた。だが、戦況の悪化で講義は満足に行われない。間もなく三菱電機長崎製作所で働くようになった。
九日は午前八時半から工場に出た。十時五十分からの休憩の時「広島に新型爆弾が落ちて大きな被害が出たらしい」と聞いた。十一時に仕事を再開した途端、突然、紫白色の強い光が目の前を走り「ドカン」「バリバリ」と激しい音がした。
窓ガラスが粉々に壊れ、屋根がつぶれた。負傷した人の悲鳴やうめき声が、そこら中から響いてきた。窓際にいた作業長は、ガラスの破片で顔中が血だらけになっていた。後ろから倒れてきた鉄の棒の下敷きになったが、「大変な被害に違いない」と直感し、痛みをこらえて外に出た。
屋外にもたくさんの人が倒れていた。十数人いるはずの同級生は一人しか見当たらなかった。わたしは比較的元気だったので負傷者の搬送を依頼された。ガラスで血だらけだったり、足や腕を骨折したり、皮膚が真っ赤に焼けただれたり、けがはさまざまだった。
午後三時すぎに工場を離れる許可が出た。実家の疎開先の佐賀県武雄市に戻ることに決め、浦上から道の尾方面を目指した。住宅地は火の海が続き、体に火の粉が振り掛かった。長崎製鋼所の裏を走り、大橋球場を横切って線路によじ登った。街のあちこちに死体が転がっていた。
線路伝いに歩いて午後七時すぎ、道の尾に着き、炊き出しの行われていた道の尾国民学校で一晩過ごした。翌日、負傷者を満載した列車に飛び乗り、諫早で乗り継いで肥前山口へ。そこからは徒歩で帰った。
十一日の午前二時ごろ、ぼろぼろの風体で武雄に着き、驚く母に「長崎にすごい爆弾が落ちて、やっと逃げてきた」とだけ告げ、そのまま眠ってしまった。ひどい下痢が約二週間続いた。
爆心地に近い下宿は跡形もなく、下宿の母娘と三人いた仲間のうち二人はそれきり消息が分からずじまいだった。残る一人は亡くなった、と後日聞いた。
<私の願い>
核兵器使用を絶対に二度と許してはならない。残酷な被爆体験の教訓が風化することなく、歴史的事実として永久に語り継がれることを願う。