県立長崎中学校の三年生だったわたしは、八月一日から幸町の兵器工場で働いていた。しかし、その日に兵器工場に爆弾を落とされた。わたしたちは近くの防空壕(ごう)に避難していたが、目と耳をふさいでいた手が外れるほどの爆風の衝撃だった。
爆撃がひどくなったこともあってか「危険なところで若い生徒を働かせないように」との配慮があり、九日から戸町のトンネル工場で働くことになった。当日の朝から警戒警報が出た。この日は仕事場が変わったばかりだったので、警戒警報が出れば仕事に出なくてよかった。わたしは近くの友人宅に遊びに行くことにした。
縁側で友人と将棋を指していたとき、B29の飛んでくる爆音が聞こえた。見ようと思って立ち上がった瞬間、ピカッときた。光というより世の中が真っ白になった感じだった。
わたしは「爆弾だ」と思い、目と耳を手でふさいで庭に伏せた。少し間があり、ドーンと爆発音がして、かわらや障子が吹き飛んで落ちてきた。近くに爆弾が落ちたと思い、しばらくの間立ち上がることができなかった。
家の中から友人の妹の泣く声がしたので、中に入った。たんすや仏壇などが倒れていたが、その子にけがなどはなかった。恐る恐る外に出ると、どの家もかわらなどが落ちて壊れていた。空にはもくもくと雲が膨れ上がり、入道雲のようだった。
自宅に戻る途中、安否を気遣って捜しに来ていた母と会い、一緒に近くにある防空壕に避難した。後で家に戻ると、たんすは約三十センチほど動き、積み重ねていた棚も落ちていた。また爆弾が落とされるのではないかと思って家では寝れず、三日ほど近くのグラウンドで野宿した。長崎駅前から浦上にかけては火の海だった。
兵器工場に勤めていた近所の人が被爆した。みんなでカキの葉をせんじて飲ませたりしたが、約一週間後に亡くなった。しかし火葬場はないため、焼け跡の材木を集めてみんなで遺体を焼いた。焼け跡のあちこちにそんな風景が見られた。
<私の願い>
戦争は二度としてはならない。みんなで争いのない世の中にしなければ。世界ではいまだに核実験などをしているが、地上の核兵器はすべて破棄してもらいたい。