松尾 幸子
松尾 幸子(63)
爆心地から約1.3キロの岩屋山の中腹で被爆 =長崎市大橋町=

私の被爆ノート

遺体転がり焼け野原

1997年5月29日 掲載
松尾 幸子
松尾 幸子(63) 爆心地から約1.3キロの岩屋山の中腹で被爆 =長崎市大橋町=

当時、十一歳。大橋町の自宅には両親、祖母、兄弟、姉妹のほか、叔母など二十人が暮らしていた。

「八月八日長崎の街は火の海」と書かれたビラを目にした父が、岩屋山の中腹に急いで建てた小さな小屋に、あの日の数日前から家族で通うようになっていた。朝からおにぎり、救急箱、防空ずきんなどを持って小屋まで上り、夕方に帰る毎日。

九日朝。「八日は過ぎた、ビラはうそだった。小屋に行くのはもうやめよう」と言う母や祖母に、父は「米国は一日遅れだから今日かもしれない。行きなさい」。仕方なく、母、祖母らと一緒に、一番上の姉が作ってくれたおにぎり、ジャガイモのおやつを持って岩屋山に向かった。

小屋に着きみんなで一休みしている時、突然、ピカッと光が走り、しばらくして、ドーンというものすごい音がした。気がつくと、トタン造りの小屋はなく、芋の葉で青々としていた近くの畑は、まるで運動場みたいに土だけに。母や弟は額や首などにけがをしており、街を見下ろすと真っ黒い雲みたいなものが一面を覆っていた。「世界は終わった」。祖母がつぶやいた。何がどうなっているのか分からなかった。

午後三時ごろ、朝から警防団の詰め所に出かけていた父が頭や手足に布を巻き、つえをつきながら、私たちの元にたどり着いた。詰め所で被爆し、建物の下敷きになっているところを助けられたらしい。夕方、自宅近くに住んでいたいとこ二人が来て、朝、おにぎりを作って送り出してくれた姉や兄嫁の死、兄たちが行方不明になっていることなどを聞かされた。涙は出なかった。ずっと正常ではなかったような気がする。

一晩、眠れぬ夜を過ごし翌日、山を下り大橋町の自宅に向かった。途中、至る所に遺体が転がり、辺りは一面焼け野原。道なき道を必死に選んで歩いた。自宅近くはがれきと変わり果て、家の前に残っていた大きな木の一部分だけが、わが家の目印だった。その後、私の通っていた山里国民学校の屋上で敵機来襲の鐘を鳴らしていた兄、そして叔母の死を聞かされた。命の恩人でもある父は下痢、熱などに襲われ二十八日、息を引きとった。
<私の願い>
思い出したくもない悲惨な体験。二度とあのようなことを繰り返してはいけない。世界の永久平和を築き上げるためにも、一日も早い核兵器廃絶を願う。

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