当時は親元を離れ、長崎市片淵一丁目の叔父夫婦宅に下宿し、同市竹の久保町の旧制瓊浦中学(現長崎西高)に通う十二歳。授業はほとんどなく、ざんごうを掘る毎日だったが、この日は学校で英語の試験があった。
試験が終わったら、住吉の友人宅に遊びに行くつもりだったが、試験中に空襲警戒警報があり、やめて帰ることになった。友人と一緒に帰る途中、防空ごうを掘っていた捕虜に片言の英語で話し掛けていた時、突然、爆風で大きく投げ出された。
爆発の瞬間、私はちょうど友人の影になって、重大な被害は免れたようだが、気が付いたら真っ暗やみで、空はすすが舞っているようだった。「これがあの世だ」と思い、また気を失った。次に気が付いたら風が強く吹き抜けていた。電車の窓から人の上半身が垂れ下がり、周りには馬や人の死体が無数にあった。
とにかく逃げようと思ったが、長崎駅の方は火事が起きていたため、場所は覚えていないが取りあえず、近くの防空ごうに逃げ込んだ。裸なのに服を着ているように皮膚が完全にめくれた人が、そのめくれた皮膚の下に手を入れ、かくようにしながら、ごうに入って来たのを強く覚えている。だれかが、扉を開けた時、外の火が入ってきて慌ててごうを逃げ出した。
ごうを出て、高台に逃げる途中、池のほとりに出た。水を飲もうと思ったが、死体が無数に池を囲んでいて無性に怖くなり、やみくもに逃げた。
どこを通ったか分からない。記憶にあるのは立山を抜けて諏訪神社にたどり着く辺りからで、下宿に着いたのは確か午後四時半ごろだった。上着も靴底もなく、ふくらはぎには何かの破片が刺さっていた。本当によく帰り着いたと思う。下宿の仲間はもう帰っていて、「私は死んだ」という報告が下宿に入っていた。
上長崎小で治療を受け、西山町に避難。十五日、天皇陛下の玉音放送をひれ伏して聞いた。二十日に父に迎えに来てもらい、いったん五島有川町の実家に帰ったが、九月に学校が再開されるとの通知が来た。再開後、仮校舎を転々とし、爆心地に近い山里小の残がいのような校舎跡を仮校舎にして、一九四八年三月の卒業まで過ごしたが、再び長崎の街に入るのが怖くてたまらなかったのを覚えている。
<私の願い>
もう二度とあんな悲惨なことはあってほしくない。被爆体験や核兵器の問題にはこれまで触れまいとしてきた。いつの間にか、なくなっていたということになればとも思っていた。今は一日一日を一生懸命に生きたい。