住徳 一夫
住徳 一夫(78)
叔母の安否確認のため8月10日、長崎市目覚町に入市 =松浦市星鹿町岳崎免=

私の被爆ノート

叔母ら家の下敷きに

1997年5月15日 掲載
住徳 一夫
住徳 一夫(78) 叔母の安否確認のため8月10日、長崎市目覚町に入市 =松浦市星鹿町岳崎免=

松浦市星鹿町(当時は北松新御厨町)で防空監視所の所長を務めていた。九日もいつも通り朝から空爆の警戒に当たっていた。午後になってから軍から連絡が入った。「長崎に大きな爆弾が落ち、大火になった」。長崎市目覚町にいる叔母の安否が気になり翌朝、列車に飛び乗った。

列車は満員だったが、重苦しい雰囲気に包まれたまま、昼ごろ長崎に到着した。駅に降り立ち目に入ってきたのは、まさに地獄絵図。一面焼け野原。丸裸の死体がごろごろ転がる。腐臭が漂い、ハエがうるさくたかっている。あちこちで死体の収容作業が行われていたが、到底追い付きそうにない。ふと目をやった稲佐山は投下から丸一日たってもくすぶり続けていた。

爆弾は見たことがあったが、今回は明らかに威力が違う。膨大な「熱と風」が襲ったのを感じ取った。

叔母は県庁勤めの夫、子供三人と暮らしていた。一帯はがれきの山と化したため、地形と勘だけを頼りに歩いて捜した。ここだと思う場所に着いたが、家屋は軒並み倒壊し確証はない。たまたま叔母の近所に住んでいたという四十代の男性がいて、教えてくれた。「おばさん(叔母)とその子供一人の声がしていたが、家の下敷きになり死んだようだ」と。絶望し、掘り返す気力もうせてしまった。

いとこが師範学校に行っていたので、そちらにも回ってみた。だが、避難していたのか、建物にはゲートルや帽子が散乱するだけ。結局だれにも会えなかった。

「もう一度、あのひどい爆弾が落ちてきやしないか」と次第に怖くなり、十日夕には長崎を離れた。帰宅し家族に状況を報告したが、みんな淡々と受け止めていた。

それから一週間ほどたち、叔母の夫から「妻と子は逃げ切れず実家の下で亡くなった」と連絡があった。一方、いとこは嬉野か大村の病院に収容され、大過ないことが分かり、幾分、気が晴れた。

その後、体調に大きな変化はないが、四十歳を過ぎてから髪が急に薄くなった。手ぐしするだけで、ごっそり抜けた。一族にはげはおらず、放射能の影響なのかもしれない。四年前から松浦市原爆被災者の会の会長を務め、会員の体験談を聞いては悲惨だった被爆現場を思い出している。
<私の願い>
死んだ人も生き残った人も被爆者は哀れなもの。われわれの体験を後世に語り継ぎ、平和運動の力として、核兵器の廃絶を成し遂げたい。みんなが脅威を感じることなく、笑顔で暮らせる時代が来るのを祈っている。

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