冨永 徹
冨永 徹(80)
爆心地から3.5キロの長崎市鍛冶屋町で被爆 =長崎市立山4丁目=

私の被爆ノート

廃虚の町 傷ついた人々

1997年5月11日 掲載
冨永 徹
冨永 徹(80) 爆心地から3.5キロの長崎市鍛冶屋町で被爆 =長崎市立山4丁目=

あの日、召集解除で帰省中だった私は、長崎市鍛冶屋町の友人のいる事務所を訪ねた。お互い元気だったことを喜び合い、積もる話に花を咲かせ、時計を見ると午前十一時二分。「おいとましましょう」と立ち上がった瞬間、ピカッとせん光が見え、ズドンとごう音がした。

爆弾投下か、と思い、その場に伏せた。ゴオーというすさまじい爆風と同時に窓は外れ、ガラスの破片が降り注いだ。一瞬辺りは薄暗くなり、ガス臭くてはっとした。毒ガス弾かもしれないから早く避難しよう、と友人と二人で半壊した扉を押し開け戸外に飛び出した。

ほんのさっきまでにぎやかだった浜町の繁華街は見るも無残な廃虚同然。家を捨て、店を後に、子は親を、親は子を呼び合い、一刻も早く安全な場所へと急ぐ人々の阿鼻叫喚(あびきょうかん)は目を覆うばかり。

破れたモンペに真っ赤な血のりをドロドロにつけている人、髪を振り乱し顔は血と汗でどす黒く汚れている人、足を引きずる人、放心状態の人、やけどでまんじゅうのように膨れ上がった顔を押さえ痛いと泣き叫ぶ人など百鬼夜行の光景にあぜんとなった。

人々は皆、山手へと急いで逃げる。私もその人波にもまれ、狭い長い階段をぞろぞろと風頭山に登った。間もなく頂上近くの防空ごうにたどり着いた。ごうの中は傷の手当てをしている人、水を欲しがる人、母にはぐれて泣きわめく子供など異様な空気。ごうを抜け眼下の市街を一望すれば、街は静まり返って不気味なほどだ。

しばらくして県庁から火が上がり、築町、紺屋町などに燃え広がり鎮火したのは午後四時近くだったろうか。ぼうぜん自失していると頭上に爆音がして敵機二機が悠々と旋回。惨状を撮影に飛来したのだろうと話し合った。

防空ごうにも夜がきて、私は矢の平町の兄の家に向かった。兄から聞いた長崎駅一帯の惨禍は想像を絶す るものがあった。

翌朝、父母の住む大村市に向かって三十キロの道を歩いた。国道にはリヤカー、大八車がひしめき合っての行列が続く。兵隊の乗った車が追い抜くたび、同乗を請う負傷者の姿は痛ましく、今も忘れられない。
<私の願い>
戦時中は、国のために命を捨てることは当然と思っていた。しかし、原爆で壊滅した街を見て、戦争に聖戦はないと感じた。核兵器は一般市民も無差別に殺す残虐な兵器。戦争を繰り返さず、核兵器が使用されないことを心から願う。

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