活水女学校三年、十四歳だった。三年生になって学徒動員されたが、体が弱かったため、他の同級生とは別に三菱造船所の給与課で働いていた。あの日は仕事が休みで自宅にいた。
午前十時半ごろ、疎開先の諫早の知人の家から母と妹が帰ってきた。玄関先に荷物を広げながら、三人で土産にもらったにぎり飯を食べようとしていた。キーンと鋭い金属音がした。「いつものように重要書類を持って防空ごうに逃げなければ」。奥の部屋へと向かった、その時だった。
ピカッと光を感じたが、爆発音は覚えていない。奥の部屋から十数メートル以上の庭の生け垣まで吹き飛ばされた。周りは砂煙で何も見えない。長い時間がたったように感じた。少しずつ状況が分かってきた。自宅は跡形もなく倒壊してがれきの山となっていた。
「とにかく逃げなければ」。近くの森へと急いだ。隣の家も、その横も…壊れている。「自宅に爆弾が直撃したのか」と思っていたが、そうでないことが分かった。約二百メートル歩いて小川のある林に着いた。
そこに座り込んでいると次々と裸同様の人が歩いてくる。気が付くと両手、両足にやけどを負っていた。少し前まで一緒にいた母や妹のことも頭になく、はだしも気にならなかった。真っ黒に焼け焦げた人や手の指先に皮膚がただれ落ちた人…。
同年代の男の子が両わきを抱えられながらやって来た。よく見ると左胸がぱっくりと口を空け、内臓がぴくぴくと動いている。「名前は」「住所は」。近くの人が声を掛けたが、息も絶え絶えで返事はない。「何か言うことは」。それに対して一言、「お母さん」と息を引き取った。
いつの間にか眠ってしまっていた。翌日、何時ごろか分からないが、捜しに来てくれた母親の声で目覚めた。周囲を見るとほとんどの人が亡くなっていた。玄関先にいた母と妹は壊れた家具のすき間に入り、奇跡的に無事だった。
家族と再会した安心感からか気を失い、約一週間意識がなかった。その後、諫早へ避難して療養。寝たきりの状態が続いたが、年末にようやく歩くことができるようになった。翌年一月に復学したが、同級生約百五十人のうち五十人は原爆の犠牲や転校で姿がなかった。上野町の焼け野原に知人が建てたバラックでの下宿生活が始まった。
<私の願い>
被爆の後遺症はいまだに解明されていない。そんな核兵器とは共存できない。平和が損なわれれば人間性も失われる。平和であってこそ自分の道を歩むことができる。原爆がなかったら、違う人生を歩んでいたと思う。