諸隈 賢一
諸隈 賢一(76)
爆心地から約3キロの長崎市大波止桟橋で被爆 =大村市木場1丁目=

私の被爆ノート

熱風襲い海へ転落

1997年4月24日 掲載
諸隈 賢一
諸隈 賢一(76) 爆心地から約3キロの長崎市大波止桟橋で被爆 =大村市木場1丁目=

当時、私は長崎市木鉢町にあった旧陸軍高射砲第一三四連隊(中隊)所属の上等兵。部下ら五人とともに大浦の司令部で公用を済ませ、大波止桟橋から午前十一時二十分発の連絡船で、中隊に戻る矢先だった。

部下も含め数十人が乗り込んだだろうか。私は最後に乗ろうとして、まだ桟橋にいた。突然、大爆音の後、背後から熱風が襲った。私はあっと言う間に海に投げ出された。軽く十メートルは飛んだ。見ると船は転覆している。何が何だか分からない。「(当時浦上にあった)ガスタンクが爆発したのか」。広島に落ちたらしい新型爆弾だとは、とっさに思いつくはずもない。

約十分後。何とか桟橋に泳ぎ着いた。市街地はメチャクチャ。「一刻も早く中隊に戻らねば」。頭にあるのは、これだけだった。

電車通り沿いに、駅前をう回して中隊に向かった。靴は脱げていたが、ひたすら走った。死屍(し)累々の無残な光景。折り重なった体は黒く焼け焦げ、「助けてくれ」とうめき声も聞こえる。目を覆いたい思いだ。だが任務が頭から離れない。死体を越えながら、無我夢中で走った。

午後一時半ごろか。必死の思いで中隊にたどり着いた。中隊は大きな被害を免れていた。「お前の背中は何だ」。話し掛けられてようやく知った。背後から爆風を浴びた私は、軍服がはがれ、背中の皮をだらりと垂らしていたのだ。不思議なもので、われに帰ったその瞬間、初めて猛烈な痛みが襲ってきた。医務室では背中の傷を「消毒でもしたかのようだ」と言われた。塩水が傷を浸し、ただれを防いだらしい。今思えば、意外な幸運だった。

先に連絡船に乗り込み、犠牲になった隊員五人のことを報告せねばならなかった。船内か桟橋か。わずかな時聞差が運命を決定的に分けた。私は上司でもあり、本当につらかった。

中隊からすぐさま死体処理に向かった。私は体に包帯を巻いて。九日から三日間、犠牲者をトラックに乗せる作業が延々と続いた。死体の肌はただれ、直接持つことができない。毛布をかぶせて運び込んだ。任務中に会ったいとこは、母と姉を失い途方に暮れていた。言葉にならなかった。

その後、終戦まで敵機襲来に備え待機していた。「このまま終わらせてなるか」。二十四歳の若い軍人で、焼け野原を目の当たりに見た私は、そんな怒りを募らせていたのを覚えている。
<私の願い>
大国による核実験が強行されるたびに心を痛め、怒りがわいてくる。原爆であれだけの惨状をもたらしたのになぜ―と。核兵器使用が残す結果は悲惨だ。絶対に使ってはならない。世界中がこれを理解してくれるよう願う。

ページ上部へ