山道テル子
山道テル子(67)
爆心地から1.1キロの長崎市大橋町の工場で被爆 =西彼大瀬戸町西浜郷=

私の被爆ノート

運命分けた1週間

1997年4月18日 掲載
山道テル子
山道テル子(67) 爆心地から1.1キロの長崎市大橋町の工場で被爆 =西彼大瀬戸町西浜郷=

当時、瓊浦高等女学校三年生(十五歳)だった。学徒動員で長崎市大橋町の三菱兵器工場に行き、魚雷を組み立てていた。

ふと、人の泣き声が聞こえてきた。気がつくと腹ばいになっていて、上に重い物が載っていた。辺りはもうもうと黄塵(こうじん)が立ち込め、きな臭い。足の方からじりじりと熱気が伝わり、焼けてしまいそうだった。何が何だか分からなかったが「私はこんなにして死ぬのだろうか」と思った。

その時、近くでゴソゴソと音がして、男子生徒が、がれきの中からはい出してきた。「何があったんですか」と尋ねたが、彼は黙って立ち去った。「私も助かるんだ、早くしなければ」と思い、倒壊物のすき間から何とかはい出した。泣き声が聞こえて気になったが、場所も確かめずに夢中でその場を離れた。

外に出てみると、足がちぎれた馬や、ボロをまとった人、血みどろになったり、黒焦げになった人たちが泣きながら歩いていた。手をつないで歩いていた同級生とは、いつの間にかはぐれてしまっていた。

私と同郷で、女学校の二つ年下の幸子ちゃんも、爆心地に近い松山町で被爆した。防空ごうの一番奥付近にいて、奇跡的にけがはなかったらしい。

その日、彼女は同じく市内にいた親類から「幸子、瀬戸に帰ろう」と誘われた。だが彼女は「一緒にいた人たちは、みんなひどいけがをしている。私は無傷だったから手伝いをしなければいけない」といい、約一週間、負傷者の看護にあたった。これが、運命を分けてしまったのかもしれない。

一週間後、彼女は古里に帰ってきた。だが、それから約半月後、髪が抜け落ちて死んでしまった。先に戻って包帯だらけだった私に「山道さんはけががひどくてかわいそう。私はどうもなかとよ」と、笑顔で励ましてくれた幸子ちゃん。「もし、あの日にすぐ帰っていたら…」。驚きと悲しみで声も出なかった。

あの日、私は頭から背中にかけて血だらけだったため、とても人を救えるような立場ではなかった。だが、周囲で泣き声が聞こえていたのに、自分だけ逃げたことは一生の負い目だと感じている。

だから今は、どんな小さなことでも人の役に立てるようなことをしたいと思っている。“平和”というものが、どんなに素晴らしいものであるかを伝えたい。若くして他界した幸子ちゃんのためにも…。
<私の願い>
「核」という人を殺すためだけが目的のものを、簡単に造らないでほしい。私たちのように空襲でおびえることなく、子供たちが外を元気に走り回る。そんな素晴らしい平和な世界を、ずっと守ってほしい。

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