終戦の年の一九四五年一月十六日付で警察官になり、五月に爆心地から三・二キロ離れた長崎市出島町の長崎水上署勤務となった。原爆投下の八月九日は、同署二階の警務課で、広島に落ちた新型爆弾について署員四、五人と話をしていた。この時、警戒警報が発令された。「十分に注意するように!」と署内放送があった。
間もなく、空襲警報は解除となったが、窓の外が真っ赤になった。「あっ、広島と同じ新型爆弾か」と思い、人がいなかった留置場に逃げ込んだ。それから、一、二秒もたたないうちに、鼓膜が破れたかと思うような大きな音がした。同時に、大型台風のような強い風が吹き、ガラスや天井が破れて落ちてきた。
その時、ガラスの破片が、私の左目に当たり、けがをしたが、爆弾で病院はなく、タオルで血を拭(ふ)いて我慢した。外に出てみたら、浦上方面は全域火の海になっており、驚いた。稲佐方面も一部大火事になっていた。また、県庁の屋上から煙が出ていたが、間もなく燃え上がり、全焼。空は全然見えず、今思えば、あれが原爆の「黒い雨」だったろうと思う。
「これは大変だ」と思って、署の横の防空壕(ごう)に逃げ込んだ。少し遅れて同僚の浜本君が来た。顔や頭、手足にガラスの破片で傷を受けていた。浦上方面に行くよう指示があったが、市全体が燃えていて、この日は果たせなかった。
水上署の窓から長崎港内に相当数の遺体が浮いているのが見えた。上司から「港内の遺体の引き揚げを急げ」との指示があり、警備艇で出掛けた。港内には、顔も性別も分からないような遺体が多数浮いていた。引き揚げようとして腕を握ると、ヌルッと皮だけが抜けた。十―十五体をロープで巻き、出島岸壁まで運んだ。この日は百体以上を引き揚げた。翌日は千体以上を数えた。この作業は十昼夜ほど続いた。
翌日、浜本君と歩いて浦上の三菱兵器工場に出掛けた。長崎駅前を通り、宝町から浦上駅までは、建物や電車などが焼け焦げていた。また、車の中や道路に焼死体がいっぱいあり、まるで地獄絵。途中もにおいがひどく、タオルを口や鼻に当てて、ようやく工場に着いた。工場は見る影もなく倒れ、遺体が二重三重と重なっていた。これが原爆の悲惨な事実だった。
<私の願い>
数年前、当時水上署で遺体引き揚げなど苦楽を共にした親友を原爆病で亡くした。むごい結果をもたらす核兵器の廃絶を願う。以前、二つの中学校で「語り部」として教職員の前で話したが、今後も平和を訴え続けたい。