長崎師範学校予科、十六歳の夏。長崎市家野町の寄宿舎で洗たくをしていた。学徒動員の兵器工場での夜勤明け。「きょうはいい天気だ」。半ズボンひとつで、二人の友人と雑談しながら衣類を洗っていたら、炊事場から昼食のにおい。
「お昼が近くなったね」と話をしていた矢先に“ドカーン”と音。目の前が明るくなった瞬間、無意識のうちに訓練で教わったように目、耳をふさぎ、息を止めながら洗い場のコンクリートの下に潜った。「地球が爆発した」。瞬間的にそう思い、大音響が収まり顔を上げたら真っ黒の世界。あの世…。
視界が開け、起き上がろうとしたが、体が動かない。材木がズボンを突き抜け床に刺さっていた。「あと十センチずれていたら」。友人に体を引っ張ってもらい、とにかく外へ逃げた。
教官から「大丈夫か」と聞かれ、調べたら体の四力所に傷。今でこそ病院に行くような傷だが、その時はけがのうちに入らないと感じた。そして、動転しながら近くの小高い丘へと走っていたら、農家の人が「どこへ逃げても同じ。ここの芋畑の葉っぱがなえてしまっとるやろ」。丘から眺めると街が燃えていた。
原爆と分かったのは後のことで、その時は飛行機が千機飛んできて一斉に爆弾を落としたと思った。結局、寄宿舎近くの農場に集まり、私も含め元気な者で死者、負傷者を担架で集めた。寄宿舎の洗たく場近くのふろ場にいた友人が亡くなっており、わたしは運がよかったんだと実感した。翌日から負傷者を諫早の病院へ運ぶ作業。寝泊まりした長与小学校の講堂にも負傷者がおり、息を引き取った人には花を一輪、胸に置いてやることしかできなかった。
その時一緒に作業していた友人が、けがもしていないのに具合が悪く食事も口にできない症状を見せていたが、一カ月ほど後に亡くなった。“死の灰”を浴びたんだ。
原爆投下から三日目の朝、母が住む松浦へ。汽車の中で多くの人から「どがん爆弾やった」「長崎はどうなっとる」と聞かれた。幸いに体も健康に回復。一九四九年、師範学校を卒業、教職に就いた。ずっと被爆者と思いたくなく、当時のことを話すようになったのは最近のことだ。
<私の願い>
教職を退職した八九年、被爆者手帳を手にした。伝えるべきことを伝えようと心境に変化。あかしとなる手帳が必要と思った。ことし平戸小学校で、原爆の怖さ、戦争のむごたらしさを訴えた。原爆には人類を滅亡させる異常な力がある。過ちを繰り返してはいけない。