吉田 孝子
吉田 孝子(70)
爆心地から700メートルの上野町の自宅で被爆 =長崎市魚の町=

私の被爆ノート

家がつぶれ下敷きに

1997年4月3日 掲載
吉田 孝子
吉田 孝子(70) 爆心地から700メートルの上野町の自宅で被爆 =長崎市魚の町=

当時、県立長崎高女専攻科三年生(十八歳)。あの日は朝から警報が出たので自宅待機していた。昼食の準備中、B29の爆撃音が静けさを破った。表に出よう、と二、三歩歩いた途端、窓の外に白いせん光を見て思わず伏せた。家がつぶれたのとほとんど同時だった。腹ばいになったまま何かに腰を押さえられ微動だにできない。「孝子はどこにおったろうか」「生きておらんかもしれん」と父母の声。私は思わず叫んだ。「うちはここにおる。父ちゃん、この指が見えんね」。右手を耳のそばから頭の先に伸ばした。

そのうちに、一緒に住んでいた材木屋の高谷さんが帰ってきた。父が、娘が下敷きになって生きているので助けてくださいと頼むと、高谷さんは快く引き受けた。屋根がわらをはぎ取り、壁を落とし、上半身をかばうように覆っていたはしご段を切り落とした。私は引き揚げられ、張り板に座布団を敷いた即席の担架に寝かせられた。下敷きになってから約八時間。すでに夕暮れだった。

私は辺りの変化に驚いた。街並みや樹木はすべて消えうせ、所々に裸になった幹が立っていた。水が飲みたかったので小川のそばに運ばれたが、硫黄のようなにおいで飲むことができない。そばには、ちぎれたボロをまとった人たちがうろついていた。

わが家の防空ごうは見知らぬ人でいっぱいで、その日はあぜ道に寝た。十日朝、防空ごうに逃げてきた人たちはほとんど息絶え、高谷さん夫婦が死体を運び出して、私を防空ごうに運んでくれた。ごう中は臭くて吐き気がした。

「やけどのひどかと」と言っていた母の髪はこげてこびりつき、顔の表皮がピラピラ下がって赤くただれていた。十一日、その母が息絶えた。通夜をし、翌朝遺体を畑の隅で焼いた。西彼琴海町の親せきの家に家族で身を寄せたが、祖父が十五日に死亡。四つんばいで終始土間に降りて血便していた父は二十一日に亡くなった。たった一人の兄も戦病死していたので私は一人になった。

その後、長崎市愛宕町の叔父夫婦の家で療養した。傷口はなかなかふさがらず髪の毛が抜けて気味悪かった。次第に回復し、手術を受けて不自由ながら何とか歩けるようになったが、被爆後四十年ごろからまたつえが必要になった。 。
<私の願い>
二度と戦争を引き起こすことのないように。地球上で大量無差別殺傷性の原子爆弾をさく裂させることのないように。掛け替えのない命を大切に、日本の歴史の真実を勉強し、真に平和な社会をつくってほしい。

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