相葉 アサ
相葉 アサ(88)
爆心地から約4.4キロの長崎市浪の平町の自宅で被爆 =恵の丘長崎原爆ホーム入所=

私の被爆ノート

負傷者の治療に奔走

1997年3月27日 掲載
相葉 アサ
相葉 アサ(88) 爆心地から約4.4キロの長崎市浪の平町の自宅で被爆 =恵の丘長崎原爆ホーム入所=

昭和十九年十月、戦禍を逃れるため長年住み慣れた東京から実家に疎開した翌年だった。当時、三十六歳。あの日は朝から警戒警報が発令されていた。実家から約三百メートル離れた浪の平小学校の防空ごうに実父と子供六人を連れて避難。その後、実家に戻り洗濯物を干していた時、「ピカッ」と走る黄色いせん光と「バーン」という爆発音。背後の屋根がわらやガラス戸は爆風で粉々に割れた。

家から見下ろすと、もくもくと異様なきのこ雲が上空に盛り上がっていた。赤、青、黄色のせん光が、キャンバスに描かれた水彩画に見えた。不気味なほど美しい光景にしばし見とれていた。「あれがピカドン(原子爆弾)に違いない」。われに返った。家族の安否を確認するため防空ごうへ。幸い、家族は無事だった。

その日の夕方。真っ赤に燃え上がる浦上方面の空と四方の山々。皆は「山火事で家屋が燃えているようだ」と叫んでいた。わずかな食料と夏布団を持って防空ごうの裏山に逃げた。燃え盛るような真夏だったが、不思議と暑さを感じなかった。夜が更けると、敵機の襲来と照明爆弾のあらし。加えて、やぶ蚊の攻撃。一晩中、不安で眠ることができなかった。

夜明けを待って小学校に戻った。校庭は何百人もの負傷者で埋め尽くされていた。助産婦を開業していたので実家には綿花ガーゼや消毒薬があった。「少しでもけが人を助けることができれば…」。負傷者の治療を買って出た。若いころ、外科医院にもいたので傷口の治療ぐらいはできた。しかし日がたち両足を骨折した少年の患部からわき出るうじ虫に足がすくみ、手が震えた。無許可の医療行為は法律違反だったが、当時はそんなことは考えもしなかった。

十五日の正午。ラジオの玉音放送を聞いた。太平洋戦争の終結を告げる天皇の声が流れた。「長かった苦しみからようやく解放される」と安どした。もう防空ごうに避難することもない。「神様からいただいたこの命を大切にしよう」と誓った。しかし、子供を亡くした人や、一兵卒になっても戦い抜く覚悟でいた人のことを思うと、もろ手を上げて喜ぶことはできなかった。
<私の願い>
あの日の光景は一生忘れることはできない。戦争は人と人とが憎しみ合い、殺し合う悲劇。絶対に起こしてはならない。一日も早く全世界の恒久平和と核実験廃絶を実現してほしい。この命のある限り、語り部として後世に語り継いでいきたい。

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