山室 一二
山室 一二(68)
爆心地から約1.1キロの長崎市大橋町の三菱長崎兵器製作所で被爆 =南高小浜町金浜=

私の被爆ノート

とにかく山へ逃げた

1997年3月13日 掲載
山室 一二
山室 一二(68) 爆心地から約1.1キロの長崎市大橋町の三菱長崎兵器製作所で被爆 =南高小浜町金浜=

昭和十八年三月に北串山村国民学校を卒業し、三菱長崎兵器製作所大橋工場で設計の仕事に就いていた。当時、十六歳。あの日は、坂本町の寮の近くで工場勤務に代わり、防空ごうを掘る作業が始まり、午前八時ごろから作業に当たっていた。

上空に稲妻のような光が走り、「ボカーン」という音が聞こえた。とっさに身を伏せた。どのくらい伏せていたかは覚えてないが、気が付き、周りを見たら、一緒に作業をしていた仲間のほとんどが死んだり、けがをしていた。元気だった三人でとにかく近くの山に逃げた。浦上方面は家が倒れ、燃え上がっていた。最初、普通の爆弾が何個か落ちたと思っていた。原爆と分かったのは数日後だった。

頭からほこりをかぶり、シャツやズボンは破れていた。けがはしていなかったが、耳と鼻がつまり、気分が悪かった。そばの小さな川で顔を洗い、のどを潤した。腹も減り、近くの畑に植えてあったサツマ芋を生で食べた。

一時間ぐらい眠り、気分が良くなったので、山を下りた。寮は倒れ、燃え上がっていた。けが人を戸板に乗せ、西浦上の線路まで運んだ。その後、工場へも行き、けが人を汽車に乗せた。道路わきはけが人でいっぱい。川を目掛けてはっていた。「水を飲ませてください」とズボンにしがみついてきた。顔の皮ははげ、着ていた洋服と皮膚は焼けただれていた。何人かに油をつけてやった。

夕方、住吉の三菱兵器トンネルエ場へ行き、一晩を過ごした。翌朝、「家に帰れる人は帰っていい」との命令があり、同郷の男性と二人で小浜を目指した。お金もなく、着の身着のまま線路伝いに歩いた。諫早駅で握り飯をもらった。そこから山道などを通り、夕方ごろ家に着いたと思う。家族は私が死んだと思っていたらしく、びっくりした様子だった。涙があふれた。

翌年、父親が亡くなり、会社に戻ることもなく、そのまま家業の農家を継いだ。一時、胃腸の調子が良くなかったが、今では元気に暮らしている。あの日、工場に出ていれば恐らく駄目だっただろう。命に縁があったと思う。(小浜)
<私の願い>
当時のことをよく思い出す。中でも、綱を引いたままの状態で、馬もろとも田んぼに倒れていた馬車引きの姿が頭から離れない。核の悲惨さは実際に目で見た者しか分からないと思う。戦争は絶対にしてほしくない。あの惨劇を繰り返してはならない。

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