当時、川南造船所(香焼村)に勤務。資材運搬の仕事をしていた。学徒動員された学生たち十四、五人を使い、長崎駅に到着した兵器の部品などを団平船に積み込み、造船所まで運ぶ毎日だった。
八月九日、いつものように、駅職員と連絡調整を取りながら、船が係留されている岸壁で学生たちに指示を出しているときだった。突然、目の前にせん光が走った。造船所でよく見た溶接の光のようなものだったと思う。
だが「普通じゃない」。そう思った瞬間、学徒たちに命令した。「海に飛び込め!」。自分も一緒に飛び込んだ。海から顔を上げると、駅の向こうに見える浦上方面からもくもくと空高く煙が上がっていた。うわさで聞いた広島の大型爆弾のことをふと思い出した。
海から上がり、ずぶぬれの学生たちを家に帰し、私も疏開先の西彼黒崎村(現西彼外海町大字黒崎)へ帰ろうと北へ向かった。その後、彼らと会うことはなかった。倒壊した家屋のがれきの中を浜口町まで歩いたがそれ以上、前に進むことはできず、再び引き返し梁川橋を西へ。
途中、服は焼けちぎれ裸同然の西洋系の捕虜数人がぺちゃくちゃしゃべりながら、慌ただしそうにしていた。橋を渡ったところで一人の少女に出会った。「おじさん、体大丈夫でしょ。下敷きになっているお母さんを助けて」。倒壊した家屋を必死に持ち上げようとした。が、しょせん一人では無理だった。
今思えば、周囲の応援を呼べたかもしれないが後のまつり。とにかく、自分のことだけで精いっばいだった。
瓊浦中学校(竹の久保町)は何かに上からたたきつけられたように全壊。稲佐山の中腹まで登ったが、白い灰が積もり地面は熱く、再び引き返した。燃え盛る長崎商業(油木町)のわきを歩き式見村に通じる山道へ。頂上付近まで登ったところで、ようやく正気に戻ったような気がした。浦上方面を見下ろすと、辺り一面のがれきの中に、黒焦げになった大きなクスノキが二、三本、ぽつんと立っていたのが今でも心に刻みついて離れない。
<私の願い>
思い出したくもないこの恐ろしい体験は自分の中だけにとどめておきたかったがあえて話した。核の犠牲者は私たちだけで十分。今後、二度と核兵器を使わないよう一人ひとりが努力するべき。