長崎市竹の久保町の陸軍の官舎に軍医の父、母、小学六年と五年の姉二人と暮らしていた。当時八歳。警戒警報が鳴り、昼食の準備をしていた母が近くの山に避難するよう言った。母は残った。弁当を食べようと森の外れに行こうとしたとき、光が走った。
学校などで空襲のときはとにかく伏せろと教えられていた。伏せた上に二人の姉が覆いかぶさってくれた。意識がなくなった。
数時間後、体を揺すりながら名前を呼ぶ姉の声で気付いた。辺りを見回すと火の海、木々に緑は残っていなかった。姉のランドセルは真っ黒に焼け、手足には爆風で飛んできた焼けた木などが刺さっていた。すぐ上の姉の手には木が貫通、自分の右足にも何かが刺さった。街を見渡すと、フライパンでてんぷら油を燃やしているような感じだった。
自宅は完全に燃えていた。出島町の陸軍病院に勤務していた父は、すぐ自宅に戻り防火用水の中で死んでいた母を見つけた。皮膚はただれていた。あまりの熱さに飛び込んだのだろうと、後で父から聞いた。
夕方、山の上方にある町内会の防空壕(ごう)に着き一晩過ごした。中からはうめき声が聞こえ、皮膚が焼けただれた人たちが大勢いた。翌朝、稲佐町の伯母宅を目指し山伝いに歩いた。
木場町に伯父宅があり、避難するため稲佐町の伯母宅を後にし、がれきの山の中、姉二人が引く大八車に乗せられ木場町へ向かった。骨組みだけ残った兵器工場が目に入る。辺りは死体だらけ。真っ黒に焼けた人は、焦げた紙のようにボロボロ崩れる感じ。片足が残った鳥居が強く印象に残っている。まさに地獄の風景が広がっていた。
木場町で終戦を知り「空襲がなくなる」とほっとした。終戦後すぐ、父が稲佐町に家を借りた。割と元気だった二人の姉は木場町から引き揚げて間もなく、食事ができなくなり体力が落ち、どちらも寝たきりになった。自分も体調を崩した。三人とも全身に血の塊のような斑点(はんてん)が出た。小さかった私を看病していた父が「これはだめだろう」と言ったのを覚えている。
二人の姉のおかげで今生きているが、姉たちは被爆してから約一カ月後の九月十一日、同時に亡くなった。
爆心地から一・一キロの近距離で被爆し生きているのは珍しいと、米国のABCC(原爆傷害調査委員会)から調べを受けた。言葉がわからずただ怖かった。学校にいても連れ出された。調べは小学校四年ごろまで続いた。父が治療してくれた右足に当時の傷が残る。(佐世保)
<私の願い>
原爆で苦しんだ。母や姉も亡くした。世界中にあるすべての核をなくし、本当の平和が来ることを願う。日本人は唯一の被爆国の国民として、原爆の恐ろしさを忘れず、核兵器の根絶を訴え続けてほしい。