当時、長崎市竹の久保町にあった旧鎮西学院中学校の二年生。原爆の直撃で、校舎は崩壊した。亡くなった先生たちも多く、学校にいれば、おそらく死を免れなかっただろう。
あの日は確か、登校日だったと思う。長与駅から列車通学していた私は、その朝、遅れて来ない列車を待って、級友たちと駅にいた。すると、八時ごろ警戒警報が鳴った。
警報があると、登校していても帰宅することになっていたので、引き返した。警報はしばらくして解除され、本来なら学校に行かねばならないところだったが、家にとどまった。運というべきか、列車の遅れに命を救われた。
三歳の弟と家の縁側にいた時、ピカッと稲妻のような光がして、しばらくして爆音と爆風が来た。縁側の雨戸のさんが折れ、草ぶき屋根のつり天井が吹き上がり、天井からすすが落ちて来た。
爆弾が落ちたと直感、四十メートル離れた防空ごうに避難した。弟が泣くので見ると、家の明かり取りのガラス片が右足に刺さっていた。その日はごうの中で、近所の人たちと不安な夜を明かした。警防団の人たちが、広島に落ちた新型爆弾と同じ爆弾が長崎に落ちたと話していた。
長崎から、被災者たちが続々長与にやって来た。ぼろぼろの服を着て、皮膚は焼けただれ、歩きながら途中で息絶える人もいた。長与小学校に設けられた救護所は惨状を極め、ひつぎが間に合わない状態。戸板で埋葬地に運ばれた死者は、皮膚がむけるので触れず、戸板から、ごろりと穴の中に埋められた。
避難して来た人たちは約千人。うち二百三人がここで亡くなり、近くの皆前墓地には身元不明の十八人が埋葬された。救護所の、やけどと服の焦げたにおいが、記憶に焼きついている。
長崎に救援に行った父は、昭和二十五年、四十五歳の若さで死んだ。私も後障害か、腰痛であぐらができない。最近、地元の中学校で体験談を話す機会があった。原爆の悲惨さを繰り返さないために、後世に語り伝えていかなければならない、と思う。
<私の願い>
戦争は絶対にしてはいけない。まして、非人道的な核兵器の使用は許されない。核の悲惨さは、目で見たわれわれが一番よく知っている。あの惨劇を繰り返してはならない。