当時二十八歳。市役所勤務の夫と小学一年生を頭に四人の子どもがいた。空襲、警戒警報が鳴っては防空ごうに避難するという緊張した毎日。「せめて、子どもたちに腹いっぱいごはんを食べさせてあげられれば」―。つらくせつない時代だった。
その日、夫は朝から諫早ヘコメを買い出しに。長男、長女は警戒警報がようやく解除になり大喜びして、パンツ一枚で近くの中島川に飛び込んだ。しばらくして二人を呼びに行った。自宅へ戻り、二階で生後約十カ月の二男に乳をやろうとした瞬間、ピカッと光った。
アッと思った直後、「ドーン」という地響きがした。隣に爆弾が落ちた、と思った。乳飲み子とそばにいた三歳の二女を両わきに抱え、一階に駆け下りた。畳は吹き飛ばされ、辺りいっぱいに無数のガラスが散らばり、足の踏み場もない状態。幸い、川遊びから戻った長男、長女は無事だった。
いつも通り、子どもたちに防空ずきんをかぶせ、リュックサックを背負わせ、風頭の防空ごうに急いだ。天気はよかったはずなのに、そのときはなぜか薄暗かった。防空ごうはけが人などでごった返し、中に入れなかった。仕方なく、近くの木の下で野宿することにした。
浦上方面は大火事で、夜になっても暗くならず、寄り添って眠る子どもたちを見ながら、ぼう然と一夜を過ごした。翌日、自宅へ戻ると、夫が家の前でナスの皮をむいていた。諫早駅から道の尾駅まで汽車に乗り、自宅まで歩いて戻ったらしい。うれしいというより、ホッとした。
その後、私たち親子は原爆後遺症に悩まされ続けた。体のだるさが抜けず、私は前髪が抜け落ち、子どもたちの血便は止まらなかった。米国のABCC(原爆傷害調査委員会)=桜馬場町=からの依頼で長男、長女を検査に通わせたが、治療はおろか薬さえもらってこない。何度も「薬をくれ」と頼んだが「薬をやる所じゃない」と断られた。夫から原爆が体内に与える影響などを調べるだけの単なる調査機関、と聞いて愕然(がくぜん)とした。
体のだるさが抜けず苦しみ続けた長男は二十二歳で自殺。私は戦後半世紀以上たった今でも、被爆者援護、核兵器廃絶運動を続けている。
<私の願い>
今もなお苦しみ続ける被爆者がいるにもかかわらず、なぜ核兵器開発を進めるのか。戦争のない平和な世界を築くためには、核兵器をつくる工場自体をなくすべき。そしてこの世から争いを追放してほしい。