当時、私は活水高等女学校の三年生。三年に進級してからは三菱重工長崎造船所に動員され、朝から夕方まで働いた。携わっていたのが魚雷か潜水艦だったのかは分からない。
家は爆心地に近い松山町にあり、疎開用の小屋を城山町二丁目=当時=に建築中だった。「空襲がひどくならないうちに、先に城山に行ってなさい」と父が言うので、祖父と私たち兄弟五人は着替えなどを持ち、まだ未完成の家へと向かった。原爆投下前日、八月八日のことだ。
明けて九日、両親が家財道具を運んできた。皆で母が作ってきてくれた弁当に手をつけようとしたまさにその時、爆風とともに屋根が崩れ、私たちはその場になぎ倒された。あまりの物すごさに、すぐ近くに爆弾が落ちたのかと思ったほどだ。
気が付くと、弟=当時(8つ)=と妹=同(5つ)=が柱と木の下敷きになっていた。急いで救出したが、弟は真っ青で息も絶え絶え。もう少し遅かったら手遅れだっただろう。妹は頭に木材が突き剌さっていた。意識はなく、もう駄目だと覚悟した。空は炎で真っ赤に染まっていた。
しばらくすると、ふもとの方から避難してくる人たちがいた。全身ひどく焼けただれ、その姿にただ驚いた。妹は意識を取り戻すこともないまま、二、三日後に死亡。遺体はその場で火葬にし、泣きながら骨を拾った。「米兵が上陸してくる」とのうわさが流れ、悲しんでいる暇はなかった。
原爆投下(もっともその時は原爆という言葉を知る由もないが)から三、四日たって松山町の自宅に向かった。浦上川には赤くはれ上がった死体の山。水を求めて力尽きたのだろう。
街はあちこちでまだ火がくすぶり、男女の区別もつかないほど真っ黒焦げの死体がいくつも転がっていた。半焦げの死体、腸が飛び出した人、馬は鼻から血を流し死んでいた。悪臭がすごかった。あの惨状は口では言い表せない。まさに地獄、いや地獄以上だ。ようやくたどり着いた自宅は跡形もなく消えていた。
引っ越すのが一日でも遅れていたら…。私たち家族は一晩の差で助かったのだ。
<マガイさんは日赤長崎原爆病院で検査、治療のため来日した>
<私の願い>
戦争はすべてを破壊する。家族までも。あの日のことはもう二度と思い出したくないのが本音だ。罪悪以外の何ものでもない。あの惨劇は絶対に繰り返してはならない。