谷口フサノ
谷口フサノ(72)
原爆投下翌日の10日、入市被爆 =恵の丘長崎原爆ホーム入所=

私の被爆ノート

どこもまさに地獄絵図

1997年1月30日 掲載
谷口フサノ
谷口フサノ(72) 原爆投下翌日の10日、入市被爆 =恵の丘長崎原爆ホーム入所=

当時二十歳だった私は戦時中、三菱兵器魚雷発射試験工場(現在の西彼長与町岡郷)で働き、同僚約四十人とともに同工場で魚雷の組み立てに従事していた。

八月九日。工場に警戒警報が響き渡り、裏山に避難した。しばらくして「もう大丈夫だろう」と山を下りてきた時、工場長に「長崎にすごい爆弾が落とされたらしい。大草駅に行ってみろ」と言われ、駅に向かった。駅には諫早方面に向かう救援列車が停車。駅はまさに地獄絵図だった。血まみれの人や顔がやけどではれあがった人が列車に乗せられ、次々にやってきた。「あんただれね?」と尋ねても全く返事はなかった。

十日朝、救護のため同僚四人とともに三菱兵器大橋工場を目指した。見渡す限りがれきの山。道端には黒焦げや男女の区別さえできないほどの遺体が重なり、転がっていた。

浦上川の大橋付近はむごたらしかった。至る所に首がひきちぎられているものや、おなかから腸が飛び出ているものもあった。ダンスのように手を上げたまま立っている女性が防火槽の中にいた。手で触れると、硬直しており倒れた。

同工場一帯では、倉庫に残っていたわずかな食料で炊き出しし、傷ついた被爆者に配った。鉄骨が折れ曲がり今にも崩れ落ちそうだったので、その日は近くの土管に同僚らと寄り添って一夜を過ごした。

十一日。親類を捜しに西彼時津に向かった。数百人に上る負傷者が板の上に寝かされていた。遺体には早くもウジがわいていた。看護婦さんは死んでしまった人に巻いていた包帯をはがし、ほかの負傷者に巻いた。薬は全くないうえ、やけどなどの傷がひどく治療の施しようがなかった。

幸いにも大鳥町に住む家族は無事だった。父親も死体の処理に従事した。兄弟九人は母の実家があった伊王島に疎開して難を逃れた。兄弟の話では、原爆の強烈な爆風が海を越え、家屋の屋根がわらを吹き飛ばしたという。
<私の願い>
あの日から半世紀が過ぎたが、もう二度とあんな悲惨な光景は見たくもない。戦争は罪悪。戦争をすればつらい思いをするだけだ。この命ある限り、平和の尊さを後世に語り継いでいきたい。

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