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私の被爆ノート

身重…生きなければ

1997年1月23日 掲載
田羽多ミツエ(79) 爆心地から約1.6キロの船蔵町(現・宝町)の自宅近くで被爆 =長崎市扇町=

当時、二十七歳。妊娠八カ月だった。両親と五歳、三歳になる長男、長女は時津村(現・時津町)に疎開。銭座国民学校近くの自宅には、夫と一歳半になる二女、私の三人だけだった。

八月九日、夫は朝から飽の浦町の三菱長崎造船所へ。娘は近所の男の子と遊びに出ていた。午前十一時ごろ、子どもを昼寝させるため、配給物の乾パンを手に捜しに出かけたが、隣の家にいたため、連れて帰ろうと軒先から声を掛けている時、何かが体にボスッときた。「アッ」―。焼夷(しょうい)弾だと思い、無意識に体の“熱さ”を手で払おうとした瞬間、背後からの爆風で家の中に吹き飛ばされた。

気が付くと、体の上はがれきの山。腹ばいになった状態で手足は動かなかった。「子どもを助けよう、生きなければ」―。死に物狂いではい出し、倒壊した建物のすき間にいて助かった娘と男の子の二人を抱き、はだしで自宅の防空ごうに向かった。腹の中の子どもが心配だった。

自宅の防空ごうはがれきや泥で埋まっていた。町内の防空ごうもけが人などでいっぱい。男の子は親せきが迎えに来たため、引き渡した。幸町方面から煙が迫ってきたため、五社山目指して無我夢中で歩き続けた。

避難する途中、二歳の娘と一緒にがれきの下敷きになった男の子の母親の「助けてー」のうめき声が今でも耳から離れない。母親は臨月…。でも、私にはどうすることもできなかった。

その年の三月まで教諭として勤務していた西坂国民学校の横を通り、山を越え、勝山国民学校の救護所へ。熱線で左半身を大やけどした上、倒れてきた柱みたいなもので背中を切ったため、腰から下は血だらけだった。だが救護所は、すでに息絶えた人、全身やけどの人などであふれていた。「私はまだまだ軽い方」。やけどの薬を腕にぬってもらい、日の出町の実家に向かった。

その後、やけどで動くことができず、寝たきりの苦しい毎日。少しずつ食事をするようになって、心音が聞こえなくなっていた腹の中の赤ちゃんが動き始めた。十月二十一日、出産。生まれて顔を見るまでは、五体満足な体かどうか不安だった。
<私の願い>
今でも世界各地で紛争、内戦が続いている。罪もない子ども、女、年寄りが犠牲になる戦争は二度としてほしくない。また、たった一つで人間の一生を変える核兵器は世界から排除すべき。

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