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私の被爆ノート

息絶えるまで私の名を…

1997年1月18日 掲載
松尾 典子・7(68) 爆心地から約4.4キロの長崎要塞司令部で被爆 =横浜市都筑区在住=

=8月18日―母の死=

その後、母の容体も悪化するばかり。お医者さん、会社の方たちがつきっきりでまくら元で見守っていてくださる。私はせめて母だけでも助けてくださいと心の中で繰り返し祈った。

お医者さんが、今のうちに何か言い残しておかれることがあったら聞いておいた方がよいと言われる。そんなことしたら母が自分はもうだめだと力を落とすからと言ったが、田原さんがもう聞いておいた方がよいと思われたのか「奥さん何か言っておかれたいことはありませんか」と聞かれる。母は「典子が、典子が、勇さん、古川の兄」と途切れとぎれに父の弟と母の兄の名を言った。「典子さんを頼まれたいのでしょう。よく分かりました。ちゃんと頼んであげますよ」。母は「典子が、典子が」とだんだんかすかにしか聞き取れない小さな声になりながら、息が切れるまで私の名を言いながら、明け方の四時半ごろ、最後の母まで、私をたった一人残していってしまった。

この島は土葬で座り棺なのに、どうして用意されたのか寝棺が二つ用意された。母と弟はその中に入れられ、母のお棺のふたが閉められた。弟のお棺のふたを閉めようとされたとき、突然私は「待って」と弟の死体の上におおいかぶさり、一生もうこの顔が見られなくなると思うと、顔から足の指の形まで頭の中に刻み込んでおこうと必死に見詰めていた。田原さんの「典子さん、さあもういいでしょう。早く舟で運んでもらわなければ人夫さんが待っているから」と私をそっと弟から引き離し、ふたをして打ちつけられた。

ふだんは母が死んだらどうしようと思っていたのに、現実に母と弟の死を前にしてとった私の態度が分からない。きっと若くして死んでしまった未来ある弟が哀れであったのだろう。

高島が見える方の海岸の岩場にお棺は運ばれ、私が火をつけた。深川さん、田原さんの奥さんは手を合わせられ、皆で黙って見詰めていた。

明日、お骨を拾いに来ましょうと私を促して帰り出した。私は母と弟から一歩一歩遠く離れてしまうような気がして、重い足をひきずっておばさんたちと帰った。

上の兄は特別操縦見習士官として戦闘機乗りになり、特攻隊に選ばれて辞世の歌を書いた手紙が来ていたし、もう生きていないかもしれない。母も私一人残していくことで死んでも死にきれない気持ちだったのだろう。命のなくなるまで私の名を呼び続け、叔父たちに私のことを頼んでくれるように会社の方に言いたかったに違いない。苦しい息の下から言葉にならない言葉であったが、母の言いたいことは私にも会社の方にもよく分かった。

母はどんなにつらい気持ちで死んでいったであろう。皆に死なれ、最後に私一人を残していかなければならなかった母の心を思うと胸が痛む。

<メ モ>
松尾(旧姓林田)さんは原爆投下一力月後、北九州市の親類宅でこの手記を書き記した。当時の心境を「はっきりと覚えていないが、原爆の犠牲となった家族五人の姿をだれかに語り伝えたかったのかもしれない」と振り返り、生き残った被爆者の苦しみとして「わが子や孫への影響が一番怖かった」と打ち明ける。

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