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私の被爆ノート

二度と開かぬ弟の目

1997年1月17日 掲載
松尾 典子・6(68) 爆心地から約4.4キロの長崎要塞司令部で被爆 =横浜市都筑区在住=

製鋼所の裏の川に止めてある舟まで行く途中、道端の焼け焦げた畳の上に弟が寝かせてある。びっくりした。苦しいからしばらく下に降ろしてと言ったとか。かわいそうに担架に乗せられたらどんなに楽だっただろうに。それを思いやる意識ももう母にはなくなっている。

やっと舟に落ち着いて寝かせ、傘をさしかけてくださった。舟は焼土を後に、のどかな島に向かって船頭さんは一生懸命、櫓(ろ)を漕(こ)ぐ。

長崎港を出て、蔭ノ尾灯台のあたりまで来て伊王島の方を見ると、青々と広がる空と海、緑の島、あんな焦熱地獄なんてまるでウソの世界のようだ。でも母と弟は何をされても無感動。舟の中で、おにぎりを食べている私を見ている弟の目の色、欲しそうな、初めてそんな表情をした。でも食べる力もない。食べてみせなきゃよかった。私は弟がかわいそうでかわいそうで、自分だけ食べることが悔やまれた。

波止場近くなると子どもたちがたくさん泳いでいる。弟もあんなにしてよく泳いでいたのに。兄が大学から夏休みに帰ってくると、田原さんの孝さんと伝馬船で沖の方に出るのに、小学生だった弟は平気で深い沖でも泳いでいた。「高明ちゃんも早くよくなって泳ぐようになろうね」と言っても何の反応もない。

簾(すだれ)の下がった涼しい家の中に二つの床がのべられ、久しぶりにのびのびと手足をのばして母と弟を休ませる。ただただ感謝。炭坑病院のお医者さまもちゃんと待っていてくださった。ありがたいことだ。

弟は盛んにお水を欲しがる。深川さんの奥さんが冷やした麦茶をくださる。弟は、私にそっと「井戸端に行ってガブガブ水が飲みたい」と言う。たくさんたくさん飲ませてやりたい。でも治ってもらうためには辛抱してもらわなければならない。麦茶で我慢させる。

【弟の死】

足がしびれると言う。こう炎天下に何も食べないで、体力も尽き果てたのだろうと足をさすってやる。やがて「お姉ちゃんの顔が見えなくなるよ」と言うと目が据わってきた。私は道端で目を開けたまま死んでいた近所の人を思い出した。そっと、まぶたを合わせるようにさすってやるとつむって、それっきり、あの大きくて奇麗な目はついにもう開くことがなかった。

今まで黙って目をつむって休んでいた母が、何かを感じたように弟の方を向こうとする。お医者さんが「今、注射をしましたから、坊ちゃん、静かに休まれていますよ」と母が力を落とさないためか嘘(うそ)をつかれた。母は私に「高明は死んでしまったんでしよう。手を組ませてやってちょうだい」と言う。「違うのよお母さん、高明は眠っているのよ」と言うけど、母は、静かに目をつむって「とうとう親子四人とられてしまった」とつぶやいた。

やっと家の中でおふとんに寝かせてやることができたのに。たった一時間後に弟は死んでしまった。こんなことならお水をたくさんたくさん飲ませてやればよかった。あんなに欲しがったのに。

<メ モ>

西彼伊王島村(現在の伊王島町)は爆心地から十一―十二キロにあり、爆風で全戸数九十六戸のうち、家屋一部破損二十一戸、ガラス窓破損五十四戸の被害が出た。典子さんの父一枝さん=当時(56)=は伊王島の港湾工事で単身赴任。九日はたまたま自宅(城山町二丁目)の防空壕(ごう)掘りに帰り、被爆したという。

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