松尾 典子・5
松尾 典子・5(68)
爆心地から約4.4キロの長崎要塞司令部で被爆 =横浜市都筑区在住=

私の被爆ノート

嫌だった暗い壕生活

1997年1月15日 掲載
松尾 典子・5
松尾 典子・5(68) 爆心地から約4.4キロの長崎要塞司令部で被爆 =横浜市都筑区在住=

かわいそうなお姉さん。とうとういなくなってしまったね。教師をしていたのに、母が体が弱かったので学校を辞めて、私たちの着るものから、おふとんの縫い直し、食事の支度、何でもやっていた。近所の方たちからも、もうよいお嫁さんになれると言われていた。若いのに楽しい思いをしないで働いてばかりいた姉が、こんなに苦しんでこんな死に方をしようとは。

夕方、父のときは母と二人でお骨を拾ったが、今では弱ってしまって母はもう動こうともしない。そんなに姉の死がショックだったとは。

防空壕(ごう)の中もカラッとしたので、丸尾さんは母と弟を寝かせて「また来ますから、お嬢さんしっかり頑張ってお母さんたちをみててあげてくださいよ」と夕闇(やみ)せまる中を二人で帰って行かれた。

また嫌な暗やみの夜が来る。姉のいなくなった壕の中は急に広くなった。母と弟が横たわり、私は二人のそばにションボリと座る。

=8月16日=

ただ黙って横になっている母と、苦しむ弟の看病。何も食べる気力もない。水をくみに行くと戦争が終わったそうなと耳に入る。またデマだろう。何の感動もない。

=8月17日=

今日、伊王島から会社の田原さん夫妻、深川さん、それに炭坑の吉野さんの奥さんがやっと来てくださった。このころは、船も敵機が低空で来て機銃掃射をするので交通船は通っていなかったので、船を持っている船頭さんにお金はいくらでも出すからと頼んでもなかなかうんと言ってくれる人がなかったとか。やっと今日来てくれる人が見つかって伝馬船で何時間もかかってやっとここまで来てくださったのだ。私は手を合わせたい気持ち。一度に全身の力が抜けてガックリとしてしまう。

田原さんの奥さんがあんなに明るい家庭だったのにこんなに変わっていようとは思いもしなかったと涙を流される。喜美子さんはどうなったんですかと言われたが、私一人では今まで学校に捜しに行くこともできなかった。とにかく学校まで深川さんと私で捜しに行ってみる。

城山国民学校の運動場にたくさんの死体が集めてある。だれか判別できるような死体はない。辛うじて衣服が少しでも付着していればそれで見つけるしかない。変わり果てた死体を見るのは恐ろしかった。もうない方がよいと思ったり、見覚えのある洋服の色を見ると、ハッとして目をそむけたくなる。結局姉らしい人はなかった。これから伊王島に引き揚げるのに、一人どこかでころがったままになるのではないかとたまらない気がする。

【伊王島へ】

担架を一つ持ってきてあったのに、弱ってしまった母が乗せられていく。弟は背負われて壕を出る。皆が出てしまった後、私はしみじみと周囲を見回してみる。目をつむると、木陰の涼しげなわが家が目に浮かぶ。「お帰りなさい」といつも笑顔で迎えてくれた母。土曜日ごとにいつも伊王島から帰っては家庭菜園で働いていた父。台所にいる姉。中学生になってからは勉強ばかりしていた弟。中間テストでは学年で七番になり、期末では一番になるぞなんて頑張っていたのに。九日はその期末テストの終わった日だった。それから一瞬のうちに変わり果てた壕生活。壕での暗い夜は嫌で嫌でたまらなかった。あとからあとから思い出は尽きない。

<メ モ>

防空壕掘りは昭和十八年十月から本格化。各町内会や隣組などの勤労奉仕によって、市内各所のがけ下や山腹に横穴式防空壕がつくられた。企業などは地下壕を構築。一般市民も床下や庭先に掘り、十九年にはほとんど全市にわたって完備。多くの朝鮮半島出身者も動員されたという。

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