=8月14日=
昨夜はお母さんと今後のことを話し合った。この後どこに行くのか。親せきが一軒もない長崎に住んでいる心細さ。親せきのいる八幡に行きたいが、あそこも製鉄所があるから空襲が激しい。またこんな目に遭うのは嫌だから、(父の出身地の)熊本の田舎に行った方がよいだろうと、残った二、三枚の着物でそれぞれの着るものを作り、お姉さんと高明が少し良くなったら行くことに話が決まる。
汽車は負傷者を諫早方面に運ぶためノロノロと浦上まで入って来ている。
今日まで伊王島の父の会社からはだれも来てくれない。母は学校に行ったきりの下の姉が帰って来た夢を見たそうな。まあうれしやと思ったら目が覚めて、周囲は変わり果てた防空ごうの中。私は「お母さん、学校の先生たち、諫早の病院に運ばれたそうよ」と昨日救護班の人が言われたことを繰り返すが「いいえ、(二女の喜美子が)生きていればここまでどんなにしてでも帰って来るでしょう」と言う。横から姉も「そうよ。家のこと心配してどうしてでも帰って来ると思う」と言う。
家から城山国民学校まで五分もかからなかった。夕方帰りの遅い喜美子姉さんを、よく私と弟が迎えに行かされた。「またピアノの練習をして時間のたつのも分からずにいるから」と母に言われて行くと、暗く静まり返った校舎の奥からピアノの音がしていたものだ。どんな死に方をしたのだろう。家族から離れてたった一人で。でもきっと仲良しの先生方と一緒だったろうと自分に言い聞かせる。
午後、初めてここまで救護班の人が来てくれた。お姉さんも今まで治療してもらうこともできず、せっかくのお薬も、ガーゼも何もなくて塗ってやることもできなかった。ただれていた皮膚もだいぶ乾いていくらか見よくなってきている。
母は、傷は残らないか、今後の治療法などを聞き、弟のことも、ろっ骨が折れていても命に別条はないかなどと細々と質問している。ろっ骨を取っても元気に生きている人の話を聞かされ、私たちはどんなに喜んだかしれない。
久留米の陸軍病院の看護婦さんが「私の家も空襲で焼けたそうよ。あなたも皆のためにしっかり頑張ってね」と私に言い、弟にも「今少し我慢して早く元気になりなさいね」と励まして行かれた。
昨日から家に貯蔵してあったバレイショ、玉ネギ、カボチャなどを煮て食べることにした。炊き出しのおにぎりも下の方には来ているそうだけれど、もらいにいく余裕がない。
今日は、父と姉が日曜ごとに手入れして作っていたサツマ芋を掘ってみる。結構大きくなっている。食糧難な時代だけに皆、サツマ芋の大きくなるのをどんなに楽しみにしていたことか。父にもお供えして皆も食べたのだが、やはりあまり食欲はない。
<メ モ>
原爆投下直後、新興善、勝山、稲佐などの国民学校に救護所が置かれ、長崎医科大病院裏手の丘や浦上第一病院の焼け跡などでもそれそれ負傷者の救護が始まった。十日以降、陸海軍の大量の救護隊、各医大および県内、県外救護班が次々と到着。しかし、手の施しようのない重傷者や被爆後障害の多発、慢性的な医薬品不足などから十分な治療はできなかったという。