=8月12日=
今朝は母とともに父のお骨を拾い、花瓶に入れて防空ごうの中に安置する。
昨夜も私がくんでくる水で母は一晩中、姉と弟を交代で冷やしていた。「典子さん、あんまり無理しないで少し寝なさい。あなたか倒れたらどうにもならないから。何にも役に立たないお母さんが生き残って、お父さんと代わっていたらあなたたちだってどれだけ心強いか知れないのに」と言う。でも弱かった母がこうして元気で姉たちの面倒を見てくれるので私にはどれだけ支えになっているか知れない。待望の夜明け、今日もまたお天気だけはよい。
=8月13日=
朝から爆音が聞こえてくる。被害状況を見に来たのか。私はもう敵機など怖いと思う暇もない。
今日は救護班から、上の方は治療に行けないから城山国民学校まで動ける人は来るようにとの達示があった。お姉さんはこんな格好で行くのは嫌だと言う。
弟だけでもと思って、苦しがるのを背負って休み休み長いことかかって、やっと治療所にたどり着く。やはりろっ骨が折れているとのこと。出血が多かったので欲しがってもあまり水分を取らせないように、出血多量の患者に水分を与えて死亡することがあると聞かされてがく然とした。今まで沸かしたのならと欲しがるままに飲ませていた。恐ろしいこと、大丈夫だろうか。薬を持っているから姉の治療に来てくれるようにくれぐれも頼んで、帰りは弟を抱きかかえて行く。
学校にいた姉はどうなっただろう。先生方、助かった人はいないのかしら。苦しがる弟を連れては捜し回ることもできない。元気な人の力が欲しい。姉も捜さなければかわいそう。
帰る途中、鎮西中学の安部先生の娘さんの和子さんに出会う。皆亡くなられ、妹さん一人生き残っていたとの事。「お互いに頑張りましょうね」と励まし合って別れた。
壕(ごう)に入る手前で、先隣のお姉さんが目を開けたまま亡くなっている。かわいかった赤ちゃんは家の下敷きに。おばあさんはかまどの所で焼け死に、ご主人は出征中。おじいさん一人残っている。
今日もまた夕方になったが救護班の人はとうとう来てくれない。また嫌な夜。弟のお水を欲しがるのには胸をえぐられる思い。 <メ モ>
城山国民学校(現城山小)は爆心地から西約五百メートルにあり、原爆の爆風と熱線で校舎は壊滅的な被害に遭った。在籍児童数約千五百人のうち推定で約千四百人が死亡。九日在校していた教職員ら百五十七人のうち百三十八人が死亡。教師だった典子さんの姉喜美子さん=当時(20)=も同学校で亡くなったとみられているが、遺体は発見できなかったという。