松尾 典子・1
松尾 典子・1(68)
爆心地から約4.4キロの長崎要塞司令部で被爆 =横浜市都筑区在住=

私の被爆ノート

胸つかれた姉の重傷

1997年1月9日 掲載
松尾 典子・1
松尾 典子・1(68) 爆心地から約4.4キロの長崎要塞司令部で被爆 =横浜市都筑区在住=

8月9日
今日は勤務の日である。家で眠る日は空襲警報が発令されても母がぎりぎりまで寝か
てくれるので朝はとても気分爽快である。
今晩は又司令部(南山手町)で定期便が寝かせてはくれないだろう。飛行艇が五島沖をうろうろするので警戒警報が発令される。このごろは毎晩の様に現れ長時間飛行しているので警報が解除にならない一種の神経作戦である。この為私達は一晩中勤務となる。
明日は又疲れて不機嫌な顔で家に帰ることになる。喜美子姉さんは宿直で昨夜は又会えなかった。男の先生が出征されて先生が少なくなっているので女の先生にも宿直がしょっちゅう廻ってくる。
朝八時家を出て途中でふとモンペのポケットにチリ紙がないのに気付き慌てて引き返すと母が「何の忘れ物」と顔を出したので「チリ紙チリ紙」とわめき立てる。母はあきれた顔をして「いつも救急袋の中に入れてあるでしょうに、わざわざ帰ってこなくても」と言われ、あっそうかと腰の救急袋をおさえて駆けだす。
司令部について下番の人から申し受けをして朝からずっと警報が発令されているので全員勤務につく。武藤さんと私が交換につく。
「11 時島原西進のB29二機長崎クハ(空襲警報発令)」、通信室で声がしたと思った瞬間パッと入り口から閃光(せんこう)が走り、もの凄い爆風にガーンと耳が聞こえなくなった。と思い、乍ら交換台に必死で伏せた。
外で作業をしていた兵隊さんがこの地下室になだれ込んできた。
司令部に落ちた。いや新型爆弾か、浦上方面は火の海だと口々に叫んでいる。その声にハッとしながら司令官、副官殿の家族を案ずる電話をつなぎながら、私の家(城山町2丁目)は、家族はどうなっただろうと不安が広がる。
ガラスの破片で負傷した兵隊さんたちが次々と運び込まれてくる。交換室の横で応急の縫合手術が行われる。狭い地下室は急に血生臭い空気がよどんできた。やがて「林田、武藤交代」の声にはっとして我に還る。通信室に入ると隊長殿が「どうだ怖かっただろう」と一寸表情をくずされた。
皆は誰かにうったえたい様な不安な眼の色で勤務している。みんな家族の安否を気遣っているのだ。各電話線はもう情報を発しない。
司令部に今の爆弾を何とみるか、被害状況は、と食い下がってくる。そのたびに私達は隊長殿の方をみるが作戦室の緊張した空気はまだ今の空爆について一言も発していない。
隊長殿は私たちの受持ちの線を暫く切らせて私共一同に静かな調子で話し出された。
「皆、家族のことは心配だろう。しかし軍人軍属はその一身は国家に捧げた筈、よく落ち着いて軍務を全うする様に」との訓示をされる。そうだ、私達は今にも飛び出して肉親を救いたい、元気な力をかしたい。でもそれは許されない。
派遣された兵隊さんによって被害状況が刻々と入ってくる。長崎駅から先は進めないこと、浦上方面の被害は言語に絶する、市の半分は壊滅。
私達浦上方面の者は絶望的な気持ちで「帰らせてください、何とか帰ってみます」と口々に叫んだ。どうせ今行ったところでどうにもならない、駅から先はゆけないのだからと皆に止められ乍ら自分自身を抑制することができない。
「それなら舟だったら稲佐あたりまでゆけるだろうから様子を見に行くだけならなんとかしてやろう」と隊長殿に言われてみて、はじめて軍にとってこの大変なとき私たち僅かな者のために舟までだしてもらっては済まない、止そうと皆ではげまし合って勤務についた。もうあまり情報もないボックスにしょんぼり入っていると西村少尉殿が「君の家どの辺りなの」と声をかけられた。いろんな思いが一気に溢れどっと涙が出た。
夜八時やっと勤務をとかれて恐怖の場面を想像しながら胸をふるわせて外に飛び出す。なんと司令部の上空までどす黒い雲に火の光が映ってその不気味な空模様に胸をつかれた。走って将校宿舎に行く階段を上ってみると、なんという騒乱、駅から先は全部火の海、浦上方面はただただ炎のまっ只中。私は言葉もなく火の海をみつめているうち涙が止めどなく頬を伝ってくるのをどうしようもなかった。
今家が焼けている、家族が死んでゆき。私達は宿舎に引き揚げもせず一晩中泣き、乍ら火の海を見ていた。

8月10日

朝早いうちに私たち浦上方面の者には、一人ずつ兵隊さんをつけられて必ず報告に帰ってくる事と言い含められて司令部を出た。救急袋の中には夜食のカンパンと朝食を食べずに握ったおむすびが、生きていてくれたらと家族の者の為に入っている。
母は心臓病の持病があるからこれ程のショックには耐えきれなかったかもしれない。父が防空壕をもう少し完全にしとかないと心配だからとちょうど会社は休暇をとって伊王島から帰ってきていて良かったと思う。
外に出ると南山手町のこの辺りまで全身着物を焼き取られ裸足の男の人がとぼとぼとやって来る。こんな重傷の人が一人で裸でこの辺りまで帰ってくるのだから現場の惨状混乱は大変なものだろう。人間も強いものだ、あれだけの重傷でここまでの道程を歩いて来るのだから。
八月の炎天の下で防空頭巾の中の額がじっとり汗ばんでくる。
県庁も半分焼けている。駅までくるとそろそろ死体が眼につき出す。馬が空気を入れられた様にふくらんで倒れている。いつも大波止で荷物運びをしていた浅いっちゃんが倒れてまだ動いているが、誰もかまう人もいない。活水女学校の報国隊の人が先生につれられて3、4人裸足で髪はふりみだし、顔は流れた血が固まっておはぎの皮をかぶった様になって歩いて来る。いつも顔見知りの人たちだけに胸をつかれた。
だんだん倒壊が烈しく道が悪くなってくる。突然不気味に空襲警報が鳴り出す。対比する場所もない。私たちは辛うじて倒壊した物陰にかがみ込んだ。にぶい音と共にB29が白く輝き乍ら飛んでくる。それを見送ると私たちはもう飛び出して歩き始める。少しでも早く先に進んで行かなくてはいけないのだから。電車道の右側の倒壊物に腰だけ出して兵隊さんが前のめりになっている。近寄ってみたら腰から上はない。思わず眼をそむけた。
兵隊さんが短剣の番号をしらべていたが伊王島の部隊の人だとの事、きっと公用で来ていてこの空襲にあったのであろう。
やっと井樋の口に出る。銭座小学校が物凄い火焔をあげている。倒壊が烈しくどう進んでよいか解らない。ここで友達が一人自分の家の方角を目指して、私たちと別れた。「しっかりして、頑張るのよ」と私たちは声をかけたが振り向きもしないで行った。
もう道の両側は黒焦げの死体がごろごろ、眼をそむける余裕もない。道もまっ黒く焦げている。幸いなことに電車道を辿ってゆくとなんとか歩ける。両側は倒壊物で足を踏み込むこともできない。
暑さと熱気と、異様な臭気で気が遠くなりそう。私たちが歩いている左側の製鋼所、浦上駅も無惨にも鉄骨がアメの様にぐにゃぐにゃになっている。
右側の山王神社の鳥居が片方の足で立っている。医大の煙突はへし曲り今にも倒れそう。
この辺りは両側の建物が全部倒壊焼失しているので両方の山が迫って私たちはまるで摺り鉢の底にいるような気がする。
鉄筋コンクリートの建物だけが倒れかけて残っている。外は全部焼け野原だ。
その焼け野原の淵学校の方角から父が歩いて来るではないか。巻脚絆をつけ救急袋を下
げて。私は思わずアッお父さんとつまづきつまづき駆け寄ってみると、人違いだった。兵隊さんや、友達の見つめている所の引き返しながら、もう精も根も尽き果てる思いだった。お昼近くと思われる頃やっと松山町に出た。
平山さん、平澤さん、私、兵隊さん 3 人で平山さんの家の焼け跡の防空壕に行ってみる、焼けただれている。平山さんは言葉もなくむせび泣いている。兵隊さんがお骨だけでも拾って帰ろうと肩をたたきながら言っている。私達もそっと別れて歩き出した。もう生物はこんな中で生きのびられる筈もない。私の心もすっかり覚悟がきまった。せめてお骨だけでもわかればよいがと、それのみ思いながら、今度は平澤さんの家に向かった。
松山町の通り、いつも私達が家から電車の停留所まで通ったこの道、丁度ここを歩いていたであろう人たちが倒れた形のままで黒こげになっている。
橋を渡ると今までの大通りと違って住宅地のため、道路が狭く焼け残った倒壊物のため一歩一歩困難を窮めた。城山小学校の正門の方の崖下の死体を兵隊さんが一カ所にまとめている。姉はどうなったんだろうか。もしやあの中にと思って、皆に暫く待ってもらって恐る恐る行ってみる。
思わず眼を覆いたくなる無惨な死体、爆死とはこんなものか、いままでは黒こげばかりを見てきた。この辺りの死体はふくらんで赤茶けた肌の色、目玉は飛び出し、お腹の破れているもの、丸く開いた口には内臓がそこまで飛び出してきている。訓練のとき爆弾が落ちて伏せるときは両手で耳と眼をふさぎ口は開ける様にと言われていた。こんなことになるのを防ぐ為だったのだ。
胸はドッキ、ドッキと高鳴ってくる。もう死体がありません様にと祈っている。わずかに体に付着している洋服で判別するしかない。見あたらないのでホッとする。私達は重い気分を抑えながらまた進む。この辺りまでくると、いるではないか、人が、生きている人がいる。水を求めて入ったのか川の中から負傷者たちが私達をみて「兵隊さん助けてください、水を下さい」と叫んでいる。兵隊さんは「待ちなさいよ、人を沢山連れてすぐ来るからね」と眼をそらしながら進んで行く。
平澤さんの焼け跡には誰もいない。少し離れた防空壕に衣類の包みだけが土をかぶっている。この辺りは松山町辺りの様な土まで黒こげになる程の焼け方ではない。浜口町、松山町の辺りが一番ひどかった。
あの辺りの惨状をみると恐らく猫一匹生きていれる筈はないと思っていた。城山町に入ってはじめて負傷者をみたときの嬉しさ、こんなだったら私の家も誰か生きていてくれるかもしれないというかすかな希望が湧くと同時にその負傷がどんなものか恐ろしい。
平澤さんは声をつまらせながら、お骨も解らないなんてと言いながら今度はあなたの家に行ってみましょうと四人で歩き出した。
平澤さんのお父さんは三菱の青年学校の先生で、幸町にいらっしゃったから多分お父さんも駄目だったんではないかしら。
私のうちは、皆はどんな姿を私にみせてくれるのだろうか、私はもう行くのが恐ろしくなった。
相変わらず生き残っている人たちは炎天の道端にギラギラと照りつける太陽をまともに受けて横たわり私達に向かって口々に「助けてください」と叫んでいる。この人たちは元気な身内の人がいないため動くこともできず、元気な私達に向かって必死にたのんでいるのだ。私はもう耳を掩いたくなった。
城山小学校の裏手まで来ると学校の横、穴の防空壕の中から「秋ちゃんっ」と平澤さんのお姉さんがかけだしてきた。「みんな生きている。防空壕の中にねかせているのよ」と務めに出ていたために助かったお姉さんは昨夜、山越えして一晩中歩き続けて帰ってきたそうだ。元気そうに片手にやかんをさげている。平澤さんは急に元気になり「今度はあなたね。元気を出して行ってね」とはげましてくれた。このお姉さんはうちの上の姉と同い年。
いよいよ兵隊さんと二人になってますます悪い道をよじ登ったり、すべり落ちたり兵隊さんにひっぱられ家の裏にあった大きな木が爆風で折れて下の方だけ残っているのを目印に兵隊さんの「ずい分遠いね」と言う声を何度も聞きながら、私は言葉もなく必死に進んでゆく。倒壊した建物の中を何度もつまずきながら我が家のあったらしい所にやっとの事で辿りつく。(略)
防空壕の前に大きな二本の木が、うつぶせに倒れた父の背中を押しつぶしている。地下足袋の片方がぬけて父の足のかかとが無残に傷ついている。壕の中をのぞくと、一家の中心で隣組の防空班長をしていた元気な姉が全身火傷で横たわり、弟も青い顔で横向きになってうめいている。そんな二人を母がしょんぼり座って見守っている。
その横にはこれも全身火傷のお隣りのおばあさんが一緒に入れられている。
「お母さんっ」「ああ典子さんよく帰ってくれたね、お父さんを見て頂戴、あんなかっこうで死んでしまって」。姉は「典子ちゃん見て頂戴、こんな顔になって死んだ方がましよ」と声を震わせる。母が「またそんなこと言って、こんな火傷は痕が残らないそうだから」と慰める。
「ほんとよ、お姉さん普通の火傷と違うからきずは残らないそうよ」と私も言ったが、姉は黙ってしまった。弟は苦しそうに呻いている。
私は涙が出るどころか身の引き緊る思いがした。私だけなのだ、元気なのは。私は救急袋からおむすびを取り出したが誰も食べようとしない。
付近にとんでいた洗面器一つ、蓋のないやかんをやっと見つけて家の井戸に行ってみる。木片が一杯落ち込んでいて水は汲めない。近所の小父さんに聞いて遠くの井戸まで行き、みんなに水を呑ませて弟の顔をきれいに拭いてやり、お姉さんと弟の額にぬれ手ぬぐいをのせてやる。
兵隊さんが「もう時間だから報告に帰らなくては」と言われる。私はびっくりした。「皆がこんな状態なのにほおっておいて又司令部まで行かなくてはいけないのですか」「隊長殿が報告に帰って来る様にとの命令だから」。私は黙った。中からお姉さんが「行ってきなさい、高明ちゃん、ふんふん言うんじゃないの、お姉ちゃん心配でゆけないじゃないの」と言う。私も軍の命令だからと観念して「お母さん頼みます」と、持ってきたカンバン、水筒のお茶をおいて後ろ髪を引かれる思いで壕を出た。
目の前に父が倒れている。「兵隊さん、この木をのけてやってください。一日もこのままで苦しかったでしょうに」兵隊さんと動かそうとするけど、この大木はビクともしない。「明日のこぎりを持ってきて切らなければ」と言われる。私は急いでその場を離れた。
早くなんとかしてあげたい、重いだろう。長いことかかってやっと辿り着いた変わり果てた我が家を後に又真夏の暑さと熱気と悪臭の中を来た時と同じ困難を繰り返して司令部にまい戻った。この時程隊長殿を憎らしいと思ったことはない。
痛んでいるが家の形を残して生きている人たちのいる南山手町に来るとどうして自分たちがあんな目に遭わなければいけないのだろうと残してきた母たちを想って胸がつまった。平澤さんも帰っている。平山さんは花瓶にお骨を入れて持っていた敷布で包み宿舎の棚に祀っている。
私は少しでも早く帰らなければと先に報告をさせてもらう。「父即死、姉(次姉)行方不明、母、姉(長姉)、弟、三人負傷」と何度か言葉につまりながら報告。はじめて涙が溢れた。隊長殿は「気の毒に思う」と下を向かれた。「すぐ帰らせていただきます」「今からもう暗くなるぞ、一人で帰れるか」「はい帰ります」と言って宿舎に行ってみる。
宿舎では皆夕食をとっている。「あなたも食べてから行ったら」とすすめられるのを断って、「平澤さん帰りましょう」と誘うと「もう日が暮れるし、姉さんが明日でいいって言ったから今晩は泊まってゆく」のだそうな。私はあの恐ろしかった長い道程をこの夕暮れに一人で、とふっと暗いかげが胸をかすめたが仕方ない。外の人たちは皆元気な人たちがいるけど、私のうちは長崎に親戚もない私一人が頼りなのだ。菊枝さんが「あなた一人で今から帰るの、私も行ってあげられるといいけど」「ありがとう」と言うと隊長殿が陸軍病院に寄って火傷のくすりを貰ってゆく様にと書いて下さった手紙をしっかり握って司令部の坂を駆け下りた。
道のいい所は走って行かなければ日が暮れてしまう。途中陸軍病院に寄ると誰もいない。「活水女学校の防空壕に皆移っていますよ」と言われて行ってみたが、軍医殿はいない。看護婦さんもほとんど救護のかりだされて今日くすりを貰うのはとても無理だと思った。家の方にも救護班の人が来てくれるに違いないと思って私はここを飛び出した。大波止に出て駅を通り電車道をたよりに小走りでどんどんどんどん行く。兵隊さんや皆とおそるおそる来た午前中に比べると今は、一人で日が暮れないうちに早く帰りたい一心でとても早い。
夏の長い日もとっぷり暮れかけたころ浜口町まで来た。今度はとても早かった。もう死体など恐いと思う余裕もない。松山町の近くまで来ると皆のいり防空壕の方に又勢いをもりかえして燃えだした山の煙りがここまでどんどん来ているのに気付く。動けない者ばかりいる防空壕の中に煙りが入って窒息するんぢゃないかしら。私は飛ぶ様に駆けた。うれしいことに向こうから救出班で出ていた司令部の兵隊さんに会う。
「お願いです、うちの防空壕に煙が入ってるかも知れません、私一人でどうすることもできません、一緒に来ていただけませんか」と頼む。「困ったなあ、もう帰営の時間なんだよ、代わりを寄越そう」。だが私は泣きついて腕をはなさなかった。兵隊さんは仕方がない、なんとか出来るか行ってみようと言われた。途端に私は元気が出て「すみませんすみません」と兵隊さんの腕をはなして走り出した。(略)
私は「まだかまだか」と言う兵隊さんの声を後に聞きながら、倒壊物で歩き難い足元につまづきながらやっと防空壕の近くまで来てみると煙はよその方に流れている。ほっとして急に兵隊さんに悪い気がして、「ご無理を言ってすみませんでした」とお礼を言えるゆとりができた。でも兵隊さんは壕の前にまだ下敷きになっている父、焼けただれた姉を見てびっくりし、どうして火傷のくすりを貰ってこなかったかと私を叱りつける。私が軍医殿が留守だったことを話すと、「よし明日自分が持ってきてやろう」と言われ、お父さんを木下から出さなければとノコギリを持って2,3人の兵隊さんを連れてくることを約束された。母は兵隊さんに両手を合わせている。
「元気を出しなさいよ」と私に言われ兵隊さんは帰ってゆかれた。
長い夏の日もとっぷり暮れ防空壕の中には苦しむ弟と姉。しょんぼりと座っている母。眼前に倒れて物言わぬ父。私は急にどうしようもない心細さと、淋しさにおそわれた。
お隣のおばあさんは私が出るとすぐ息を引き取られたとか、もう壕には居なかった。
こうしてはいられない。水を欲しがる皆、下痢もしている。とにかくまだほの明かりが残っているうちにもう一度何か入れ物になるものを探さなければ、他所の人が昼間めぼし
いものは探し集めているのでなかなかない。それでもどうにか役に立ちそうな空き缶などを集めた。昼間拾っておいた洗面器ややかんに遠くまで水を汲みに行き、皆に飲ませ、熱の高い姉の額に濡れタオルをのせ、空き缶で下痢便をとって遠くに穴を掘って埋める。もう周囲は真暗くなってしまった。
こうして暗闇の防空壕での長い一夜が更けていく。何度か遠くまで水を汲みに行ったり汚物を穴を掘って埋めたりしているうちに夏の空ははや、白みかけた様だ。朝から何も食べていないのに空腹も感じない。
防空ごうでの暗やみの夜は長かった。皆は絶えず水を求め便意を訴える。暗い中を水くみに走り、汚物を何度も埋めるうち東の方が明るんできた。

防空ごうを出入りするたびに、お父さんの姿が目についてつらい。死んではいるものの、あの重い倒木に押しつぶされているのは苦しそうで見るに忍びない。

お昼ごろ、防空ごうの中ばかりでは気がめいるので、簡単な日よけをした所に皆を移すことにする。弟を動かして驚いた。下を向いていた方のほおはすれて青黒くはれ上がり、背中と首に深い穴があいている。それで今までずっとうめいていたのだ。「高明ちゃん苦しい」と尋ねると、大きな目を潤ませてうなずいた。

こんな罪もない子どもまで苦しめるなんて。突然、私は怒りのあまり涙がほおをつたった。痛がる弟を少しの辛抱と心を鬼にして運ぶ。ひどく胸の痛さを訴える。家の下敷きになった時、ろっ骨を折ったのではないだろうか。

姉を明るい日の下で眺めた時、私は胸をつかれた。こんなひどいやけどを負いながら弟を倒壊した家の中から助け出し、その夜は弟を背負って火の海を逃げ回ったからだ。貴重品袋を取り出すことができず謝っていた姉。弟を背負ったのでやけどした腕の皮膚がベラッとむけてしまっている。病弱な母の代わりに一家の支えになってきたその気持ちが、こんな重傷を負いながらも弟と母を救い出させたのだろう。

防空ごうの外は照りつける太陽でかえって悪かった。また防空ごうへ戻ることを思ったが、皆は苦痛のため動けない。私は姉の髪をすいたり弟の足をさすってやった。

午後、ようやく要塞(さい)司令部から兵隊さん三人が、やけどの薬を持って来てくださった。お父さんの遺体が出してもらえる。しばらくして兵隊さんが「最後なんだからみときなさい」と呼びに来てくださった。でも私は行かなかった。変わり果てた無残な顔を見るのは怖い。何度も呼びに来てくださったけど、どうしても行けなかった。

日暮れ。兵隊さんも「明朝、お骨を拾いなさい」と言い残して帰って行かれた。また暗く長い夜を思うと、なんとも言えない寂しさに襲われて気がめいってしまう。やはり皆を防空ごうに入れなければ夜露は毒だろう。明日はもう防空ごうにいよう。

<メ モ>

典子さんの実家があった城山町二丁目は、爆心地から西南六百五十―三千メートルの広い地域。典子さんの一家のように大戦末期、市中心部から疎開してきた直後に原爆に遭う人々も少なくなかった。この町は救援、救護の手が遅れ、孤立した状態で取り残されたという。

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