並川 柾
並川 柾(60)
爆心地から1.8キロの稲佐町3丁目で被爆 =諫早市貝津町=

私の被爆ノート

背後に黄色い光線が…

1996年12月19日 掲載
並川 柾
並川 柾(60) 爆心地から1.8キロの稲佐町3丁目で被爆 =諫早市貝津町=

稲佐の国民学校の四年生で十歳だった。稲佐町三丁目にあった五軒長屋の借家に両親と六歳上の兄、三歳上の姉と私の五人で住んでいた。長屋の裏手にはお寺の説教所と境内があり近所の子供たちの格好の遊び場だった。

あの日は長屋裏手の境内で子供数人で遊んでいた。同じ長屋に住む独り暮らしのおじいさんも境内におり、夏場で上半身裸だった。確か警戒警報が鳴ったのを記憶している。空を見上げると、浜町方面のはるか上空に二機の飛行機が飛んでいるのが見えた。太陽の光できらきら輝いていたのを覚えている。飛行機は浦上方面に向かっていた。

長屋の自宅に戻ろうと玄関に入った途端、黄色い光線が私の背後と、前面の部屋の窓の外を駆け抜けた。同時に押されるように飛ばされた。屋外が真っ暗になった。そのうち夜明けのように明るくなってきた。自宅には母親と姉、兄がいた。父は仕事で不在だった。

とりあえず家族四人で近くの防空ごうに避難し、近所の人たちも集まってきた。そのうち、境内にいたおじいさんが防空ごうにやってきたが、皮膚が真っ黒に焼けた感じで、やけどした皮を手でむしり取っていた。翌日、おじいさんは亡くなったと聞いた。

その日の夜は近所で炊き出しがあり、長屋近くの畑のカボチャをくり抜いておわんにして汁ものを食し、豆かすの入った握り飯を食べた。父も防空ごうに無事帰ってきた。長屋は被爆後の火事で燃え、防空ごうで一夜を過ごした。

翌日は、住まいがなくなったため、母親の実家がある諫早の久山に向かった。家族五人で稲佐から浦上川沿いに歩いた。川には死体がたくさん浮いていた。大橋の市営野球場があった所は当時、石炭がらの置き場だったが、そこで遊んでいて被爆した子供の死体がいくつもあった。電車がひっくり返り、馬があちこちで死んでいたのを覚えている。昼ごろ稲佐を出て、道の尾近くの六地蔵に着いた時は日が暮れて暗くなっていた。道の尾からは列車に乗って諫早へ向かい、喜々津で下車した。 (諫早)
<私の願い>
被爆翌日に歩いて見た浦上方面の光景は、地獄絵さながらで悲惨だった。子や孫たちには絶対にこんな経験をさせたくないとの思いでいっぱいだ。被爆者として核兵器が世界から無くなるよう切望している。

ページ上部へ