田中 久美
田中 久美(70)
爆心地から約3キロの桶屋町の下宿先で被爆 =西彼大瀬戸町松島内郷=

私の被爆ノート

水やると笑み戻った

1996年12月12日 掲載
田中 久美
田中 久美(70) 爆心地から約3キロの桶屋町の下宿先で被爆 =西彼大瀬戸町松島内郷=

長崎電報局に勤務し、十九歳だった。あの日は夜勤を終えて午前九時ごろ、印刷所を経営する下宿先の叔母の家(桶屋町)に帰宅。当時は男手が不足し、印刷所で何かと手伝いをしていた。この日も朝食後、浦上の得意先に行く予定だった。

午前十時ごろ、印刷所を出ようとしたら印刷機械が故障し、修理を頼まれた。修理を終えようとした時、ピカッと火花が走り、次に大きな衝撃があった。目と耳をふさいで伏せたが、棚から落ちた何かが頭に当たり、一瞬気が遠くなった。

気が付くと肩から顔にかけてガラスの破片が突き剌さっていた。近くの救護所に行くと内臓が露出したけが人もおり、失神しそうになった。

ちょうど、印刷所に浦上方面からのお客さんがあり、昼すぎ、二人で浦上へ出発した。立山町を通り、金比羅山のふもとを歩いた。印刷所の近くに爆弾が落ちたと思っていたが、浦上に近づくと壊滅的な被害で目も当てられない状態だった。

「もし、予定通り浦上に出発していたら」と考える と恐ろしくなった。

衣類を吹き飛ばされた挺身(ていしん)隊の女学生、道端には断末魔の苦しみにもがく大勢の人がいた。「水をくれ」と女学生が足にまとわりついてきた。二十数人に杯一杯の水をやったが、苦痛にゆがんだ顔が少しほほ笑んだ。

お客さんと浦上天主堂の近くで別れた後、無性にのどが乾き、浦上川に行った。そこには何百の死体が重なっていた。死体を押しのけ、川に顔を突っ込んだ。水の汚れも全く頭になかった。

「二十数人に飲ませた水が良かったのか、悪かったのか。末期の水になったのかもしれない」。帰路をたどりながら考えた。「苦痛の表情に笑みが戻り、良かったんだ」と自分に言い聞かせた。

その帰路の畑の隅にやけどを負った医学生が倒れていた。「すみませんが、私がここに死んでいることを家族に伝えて」と言う。難しい頼まれごとだが、急いで荷札に住所、氏名を記入し、手にくくり付けた。

終戦後、路頭で引き取り手のない死体を積んだ馬車を見掛けたが、あの日出会った医大生はどうなったか、気になった。(大瀬戸)
<私の願い>
もっと平和教育に力を入れ、世界に向け核廃絶を訴えるべきだ。被爆者は高齢化している。今のうちに行政で体験談集を製作するなどして、戦争がいかにむごく、ばかげたものかを知らせていかなければならない。

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