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私の被爆ノート

もう、ここで死のう

1996年12月5日 掲載
野口 岩夫(67) 爆心地から3.2キロの長崎電信局の寮で被爆 =福江市吉田町=

被爆したのは十五歳のとき。長崎電信局で働いていた。あの日は当番明けで休みだった。西古川町(現在の古川町付近)の寮で、ふんどし一つで寝ていたら、「飛行機がきたぞー」という声が聞こえた。友軍機かと思い二階の窓から乗り出していたら、雷みたいなものが「バシッ」ときた。「パーン」という音がして寮の外まで吹き飛ばされた。

目を開けたが何も見えない。「もう、ここで死のう」とうずくまっていた。しばらくすると、うっすらと辺りが見えるようになり、友達と一緒に高台の墓場まで無我夢中で走った。気分が悪くなり、黒い物を二、三時間吐き続けた。胸にごみが付いていたので、手で払ったら皮がべろりとはげ落ちた。腕や首の皮もやけどではげた。あんな痛みは二度と感じたことはない。

その後、大きなお寺に行った。そこには医者と看護婦がいて治療を受けた。全身にやけどをした人や、頭が三倍くらいに膨れ上がった人がいて、それでも生きていた。でも、そういう人たちは長くはなかった。寺の中で死んだ人を焼いていた。あのむごさは言葉では言い表せない。

寺を出て電信局までたどりついたが、それから数日間は熱が出て意識を失っていた。そこにも死体がごろごろしていた。「水くれー、水くれー」といって死んでいった。小学一年生くらいの子供が二、三十人列になって死んでいたのも見た。かわいそうだった。

何日かは覚えていないが、五島で一級上だった人が手を引いてくれて五島行きの船に乗った。その人はけがもなく元気だったが、五島に着いて二、三日後、ひどい下痢をして亡くなった。私も黄疸(おうだん)が出て寝込んだ。皆、「死ぬとだね」とあきらめていたが、二カ月くらいして動けるようになった。(五島)
<私の願い>
終戦と聞き、皆は泣いていたが、私は心の中で「これで生き残れた」と安どした。とにかくあのむごさは口では言いきらん。戦争は絶対、絶対…。平和であることだけが願い。戦争は絶対繰り返してはならない。

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