1945年4月に長崎市片淵から深堀村に疎開した。8月9日は円成寺の境内で遊んでいる時、爆風に襲われた。とっさにしゃがみ込み、防空壕(ごう)に駆け込んだ。しばらくして境内に戻ると、北の方角に巨大な雲が立ち込めていた。
9日夕、長崎市内から血だらけの人たちが次々に帰ってきた。三女のフミ姉さんは三菱長崎兵器製作所大橋工場で働いており、父も住吉町の住吉寮で責任者をしていたが、2人は戻らなかった。10日には村から救援隊が出ることになり、母と長女が2人を捜しに向かった。
住吉寮の近くには父の知人で、フミ姉さんが下宿をさせてもらっていた今上さんの家があった。父とフミ姉さんは被爆した後、今上さんの家に戻っていて、そこで11日朝に母たちと再会した。フミ姉さんはがれきの下敷きになったが自力ではいだし、近くにいた女性を救助した。父は寮のコンクリート壁のそばにいて奇跡的に無事だった。
夕方になると、深堀村に残る私や他のきょうだいを疎開させるため、フミ姉さんが迎えに来た。12日午後から船で大波止に渡り、そこから歩いた。道中は黒焦げで膨張した死体ばかり。あちこちでは馬もひっくり返っていた。
日が暮れると、紫色の光がゆらゆらと浮かんでいるのが見えた。何だったかは分からないが、私が歩いたがれきの下には多くの人が埋まっていたはず。その人たちの早く出してくれと訴える悲痛な思いではなかっただろうか。
その日は道ノ尾駅付近で1泊。13日朝、朝日が昇るとけが人だらけの光景が目に入ってきた。怖いので下を向くと、あちこちで何かがぼこぼこと動いていた。人の体をはううじ虫だった。フミ姉さんが疎開前に今上さんにあいさつすると言うので、住吉トンネル工場を通って住吉へ戻った。トンネル内もけが人だらけで野戦病院のようだった。道ノ尾駅から乗った救護列車も地獄絵図。けが人が次々に息絶えていった。
疎開先は佐賀県の能古見村。15日には大人たちが「日本は負けた」と泣いていた。それからすぐ、フミ姉さんの体調が悪化。体中に斑点が出て髪も抜け、9月13日に亡くなった。姉は8月9日から体調を崩す8月17日まで日記を書いていた。軍国教育を受けた若者の心情がつづってある。紫色の光として見えた人々の思い、姉の無念さを語り続けたい。(山里悠太朗)
<私の願い>