昭和二十年八月九日、朝方から空襲警報が出され、家族三人で町内の防空ごうに避難していた。暗やみの中、ピカッと閃光(せんこう)が走り、雷を何十倍にもしたようなごう音が響き渡った。「爆弾が落とされた」と恐怖を感じ、外に出る気さえしなかった。
数時間後、市街地を見渡しがく然となった。周囲の家々は炎上、浦上川対岸の稲佐山はあちらこちらで火の手が上がっていた。立派だった県庁舎も燃えた。その日は八坂町裏手の山で一夜を過ごした。
翌日。親類の安否や被害状況を知るため爆心地へ。
あの光景は脳裏に焼き付いて離れない。特に水を求めて市民が殺到した大橋一帯は悲惨極まりなかった。家屋がくすぶり続ける中、やけどで皮膚がただれ、苦しむ重傷者や既に息絶えた人々は数え切れないほどだった。
銭座の自宅は焼けて跡形もなく、約一週間「身内捜し」に明け暮れた。岩川町の軍需工場に勤めていたいとこは行方不明。豆腐店を営んでいた浜口町の親類夫婦宅では、焼け跡に残った大釜(がま)に頭を突っ込み死んでいる遺体を見つけた。多分、親類の妻だったろう。さらに城山国民学校(現・城山小)の倒壊した校舎付近は、子供たちの遺体が散乱、思わず目をそらした。
長崎に投下されたのが「原子爆弾」だったことなど知るよしもなく、戦争の勝敗より、家族のため毎日を生き抜くことに懸命で、食べ物を探し回った。たまたま、五島町の会社倉庫で見つけた塩で、どうにか命をつなぐことができた。
終戦後、アメリカ軍が上陸し「長崎市民を一人残らず殺す」などの流言飛語が飛び交ったが、実際の進駐軍兵士らは敵国の私たちに対し、「とても優しかった」と記憶している。
<私の願い>
戦後、新聞やラジオで原爆の威力を初めて知ったが、米国民を恨む気にならなかった。もし広島、長崎に原爆が投下されなかったら日本は間違いなく本土決戦を挑み、多くの国民を道連れに玉砕したと思うからだ。もう二度と過ちを繰り返してはならない。