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私の被爆ノート

声にならぬ悲惨な光景

1996年11月14日 掲載
井沢 寿子(77) 被爆者看護で被ばく =佐世保市南風崎町=

佐世保市の自宅で九日夜、「一世帯に一人は翌朝八時から、近くの病院に運び込まれる被爆者の看護をするように」と連絡を受けた。

原爆投下のとき家の外にいた母は、長崎方面の空に異様な光が上がったのを見た、と言った。ただ、海軍に召集された私の夫が長崎市の兵器工場で働いていたため、心配させないようにとしばらく口にしなかったようだ。

毎日十人ぐらいの主婦が病院に出掛けた。看護婦は四人しかいなかった。貨車で運ぼれて来る被爆者の焼けただれた肌はピンク色で、そこからポロポロ落ちる大きなうじ虫を割りばしでつまみ取った。肌に触れると生ぬるく、ぬるっとしていた。ガラスの破片が体のあちこちから出てくる人もいた。ご飯を食べさせている途中で亡くなる人もいた。

みんな声にならないほど悲惨な光景だった。においもひどく、ご飯も食べられなかった。包帯がなく、沸騰したお湯で浴衣を消毒し、裂いて使った。

十一日、夫が帰ってきた。けがはしていなかったが、下痢や歯茎からの出血がひどかった。次第に貧血がひどくなり、黄疸(おうだん)が出だした。夫は四カ月後、三十一歳で亡くなった。

当時、私は二人の子供を抱え、身重だった。翌年の夏に生まれた子供は「夫の代わり」のように思えて、本当にかわいかった。しかし、黄疸が出たりリンパ腺(せん)がはれたりして生後七十五日で亡くなった。自分も目まいや吐き気がひどくなり、以前六十キロあった体重が三十五キロまで減ってがい骨みたいになった。

被爆者の世話をしていた当時は、女性としてお国のために役立ちたい精神だけで懸命だった。被爆者が次々と死んでいった様子は、今も心に焼きついて離れない。(佐世保)
<私の願い>
原爆の後、健康な日はなくなり、体はぼろぼろになった。原爆は怖い。五十年もたつと本人の記憶も薄れてしまうし、若い人でなくても、そういう気持ちを感じ得なくなっているかもしれない。悲惨さを忘れないようにしてほしい。

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