当時十七歳。昭和二十年三月、旧制長崎中を卒業。そのまま学徒報国隊として三菱重工幸町工場に通勤していた。八月九日は何となく行く気がせず、勤務以来初めてさぼった。
自宅二階でパンツ一枚で読書していた。十一時二分、カメラのフラッシュを百個ほど目の前で一斉にたかれたような鋭い光が走り、何も見えなくなった。「やられた」と思い、本箱の後ろに本能的に目と耳を押さえて身を伏せた。
約二分後、そっと起きてみてがく然とした。天井に直径二メートルほどの穴が開き、ガラスも粉々に散り、かわらや土くれが一面に散乱。あまりのひどい変化に私は異常心理状態になりゲラゲラ笑いだした。
「弘、大丈夫ね」と呼ぶ母の声に我に返り、防空壕(ごう)に飛び込んだ。今度は怖くて約二時間ほど外に出ることができなかった。
その日、県立工業高校(爆心地から八百メートル)で教師を務めていた兄=当時(26)=は帰宅しなかった。次の日、兄の消息を聞くため同校を訪ねた。同校もペシャンコで、生き残りの教師は「生徒を引率し浦上方面に家屋疎開作業に行った」という。
翌日、浦上地区で兄を捜し歩いた。見渡す限りの瓦礫(がれき)の山に無数の死体が転がっていた。八月の夏の盛り。死体は腐りかけ、真っ黒焦げで大きく膨れ上がり、性別さえ分からない。
朝から晩まで汗だくになって捜し回り、結局あきらめて帰ろうとしたとき、「弘!おれはここだぞ」と呼ぶ兄の声を聞いた気がした。近くの黒焦げで膨れ上がった死体を、あおむけからうつぶせにひっくり返した。ズボンのポケットだけがわずかに焼け残り、中から「中村」と彫った印鑑が見つかった。爆心地から約三百メートルの場所だった。
原爆投下から四日後、家族全員田舎に一時避難することになり、親せきの家を目指す途中、兄の遺体があった場所辺りで私の体に異変が起きた。激しい腹痛と高熱、猛烈な脱水症状、黄疸(おうだん)症状のため、死を覚悟した。丸二日、近くの防空壕で休むと、うそのように症状は消えたが、今日まで再発を気にしながら暮らしてきた。
<私の願い>
新聞を読めば、毎日、世界のどこかで紛争があっている。戦争は人の殺し合い。絶対にしてはならない。世界中から争いをなくすことに少しでも役立ちたい、と被爆体験を修学旅行生に伝えており、語った学校は百校を超えた。後々の世代まで平和の尊さを語り継いでほしい。