七月末ごろから長崎への空襲が激しくなった。心配した母は、幼い四人の妹、弟たちを疎開させるため、前日の八日、佐賀の実家に出掛けたばかりだった。
九日、父は岩川町の三菱電機鋳造工場、十四歳の兄は学徒動員で戸町の兵器工場へ。私は当時十一歳。双子の弟と一緒に縁側で、米をついていた。玄米のような黒っぽい配給米を一升瓶に入れ、竹の棒でつついて精米する作業だった。
そうしているうちに腹が減ったため、二人で茶の間に入り、昼食を食べようと座った瞬間、家中に青いせん光が走った。雷を何十個も落としたような感じだった。無意識のうちに目と耳をふさぎ伏せていた。数分後、静かになったため顔を上げると、壁や天井は落ち、家具は倒れ、家は半壊していた。窓ガラスの破片が手足にささるなど多少のけがはあったが二人とも無事だった。とりあえず、自宅の防空ごうに入った。数時間後、兄が戻ってきた。その夜は赤々と燃える浦上川の向こうの対岸をずっと見ていた。
父は翌日も戻ってこなかった。これまで小さな爆撃があった時など、後始末で自宅に帰らない日もあったが、今回は何か不安だった。
二日後、兄、弟と三人で父を迎えに行くことにした。途中、焼けた電柱や街路樹が倒れかかって行く手を遮り、がれきが散乱した中に、焼けただれ膨れ上がった死体が転がっていた。梁川橋付近は祈るように首をたれた死体がずらり。できるだけ視線をそらして足早に進んでいった。
父が働く工場は焼け落ち、へし曲がったスクラップの山と変わり果てていた。壊れた塀越しに数人の人影を見つけ「山脇はどこですか」と兄がはずんだ声をかけると「やあ、坊ちゃんですね。お父さんはあっちで笑ってるよ」と明るく答えた。
父は遺体だった。崩れた事務所近くに数体の遺体と一緒に寝かされた父の顔は安らかだった。焦げた角材の上に父をのせ、その上に板切れを高く積み上げた。火が放たれ、炎が高くのぼったが、二本の素足は突き出たままだった。それを見ていると涙があふれて止まらなかった。
<私の願い>
あれから五十一年がたった今でも、世界では内戦など戦争が絶えず、核兵器もたくさん残されている。若者はこの現実をしっかりととらえ、われわれの意志を受け継いで世界平和を実現してほしい。将来、原爆が忌まわしい記憶といえるような時代になってくれれば。